「靖国神社」の版間の差分

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主に靖国神社の存続の決定過程に関する加筆と出典追加
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東京招魂社は軍が管轄するものとされ、一般の神社とは異なる存在で種々の不安定要素があった為に、正規な神社へ改めようとする軍当局は社名の変更と別格官幣社への列格を要請し、明治天皇の裁可を得て1879年(明治12年)[[6月4日]]に「靖國神社」への改称と別格官幣社列格の[[太政官達]]が発せられた<ref name="阪本">阪本是丸「[[ファイル:U+FA1C.svg|12px]]國神社」(『日本「神社」総覧』、新人物往来社、平成4年)。</ref>。もっとも、正規な神社となった後も神社行政を総括した[[内務省 (日本)|内務省]]が職員の人事権を有し、同省と陸軍省および海軍省によって共同管理され、しかも運営の主導権は財政を担った陸軍省が有する等、神社としては特殊な存在ではあった。創祀以後、春秋の例大祭には勅使が差遣されての[[奉幣]]が行われ、また新たに神霊を合祀するに際しても勅使を差遣した他、[[天皇]]・[[皇后]]の[[行幸啓]]を始めとする[[皇族]]の[[親拝]]や代参も頻繁になされる等、[[皇室]]および国家から臣下を祀る神社としては異例の殊遇を受け<ref name="阪本"/>、また合祀祭に当たっては諸官員(公務員)に休日を賜う例であった<ref>『神道大辞典』第3巻、平凡社、昭和15年。</ref>。なお、祭主は陸・海軍武官が勤めた<ref>CD-ROM版『世界大百科事典』、平凡社(日立デジタル平凡社)、1998年。</ref>。
 
[[1932年]]([[昭和]]7年)、[[上智大生靖国神社参拝拒否事件]]が起きる。この事件を受けて、[[ローマ教皇庁]][[福音宣教省]](長官は[[ピエトロ・フマゾーニ・ビオンディ]][[枢機卿]])が[[1936年]]([[昭和]]11年)に訓令「[[祖国に対する信者のつとめ]] (Pluries Instanterque<ref>[http://orbis.info/wp-content/uploads/2012/08/1936_Pluries_Instanterque_web.pdf ACTES DE S.S.PIE XI, texte latin et traduction francaise, TOME XIV (Annee 1936), Instruction Pluries Instanterque, MAISON DE LA BONNE PRESSE, Paris.(ラテン語-フランス語)]</ref>)」を駐日教皇庁使節{{仮リンク|ロ・マレ|en|Paolo Marella}}大司教に宛てて送り、愛国心の表明としての靖国神社参拝が容認される<ref name="Breen">[http://www.japanfocus.org/-John-Breen/3312 John Breen, "Popes, Bishops and War Criminals: reflections on Catholics and Yasukuni in post-war Japan," The Asia-Pacific Journal, 9-3-10, March 1, 2010.]。
</ref>。
 
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戦後は、[[政教分離]]政策の推進により靖国神社は国家管理を離れて[[宗教法人]]となり日本政府との直接的な関係は無くなったものの、軍人を祭神として祀る点や公職に就く者の参拝とそれに伴う[[玉串]]料の奉納等が批判され、様々な問題が生じている(詳しくは「[[靖国神社問題]]」を参照)。
 
====靖国神社の存続とローマ教皇庁カトリック====
{{See|パトリック・バーン}}
終戦後も靖国神社が存続したことについて、以下のような逸話が語られている<ref name="hiwa">以下、木村正義「靖國神社とブルーノ・ビッター神父」、社報『靖國』昭和56年7月号所収。『教会秘話』志村辰弥 聖母文庫</ref>。戦後に日本を占領した[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]は、[[1945年]]、靖国神社を焼き払い[[ドッグレース]]場を建設する計画を立てていたが、賛否両論が巻き起こり収拾が付かなくなっていた。そこで[[ローマ教皇庁]]代表であり[[上智大学]]学長でもあった[[ブルーノ・ビッテル]](Bruno Bitter、英語読みでビッターとなっている場合あり)神父と[[メリノール宣教会]]の[[パトリック・バーン]]神父に意見を求めることになった(しかし、逸話と異なり、実際はビッテルは上智大学の学長になったことは一度もなく、占領期の教皇庁の代理人でもなかった。日本における教皇庁の代理人は{{仮リンク|駐日教皇使節パオロ・マレーラ|en|Paolo Marella}}であった<ref name=Mullins>マーク・R・マリンズ「[http://21coe.kokugakuin.ac.jp/articlesintranslation/pdf/MULLINS.pdf いかにして靖国神社は占領期を生き延びたのか─通俗的主張の批判的検討─]」 2010年、國學院大學デジタル・ミュージアム。(Mark R. Mullins. (2010). “How Yasukuni Shrine Survived the Occupation: A Critical Examination of Popular Claims.” ''Monumenta Nipponica'' 65(1): 89-136. 上智大学 の翻訳)</ref>)。ビッテル神父は「いかなる国家も、その国家のために死んだ戦士に対して、敬意を払う権利と義務があると言える。それは、戦勝国か、敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない」「靖国神社を焼却する事は、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍の占領政策と相容れない犯罪行為である」<ref name="hiwa"/>と述べ、次の言葉で締め括った。
 
: 「靖国神社が[[国家神道]]の中枢で、誤った[[国家主義]]の根源であるというなら、排すべきは国家神道という制度であり、靖国神社ではない。我々は、[[信仰の自由]]が完全に認められ、[[神道]]・[[仏教]]・[[キリスト教]]・[[ユダヤ教]]など、いかなる宗教を信仰するものであろうと、国家のために死んだものは、すべて靖国神社にその霊をまつられるようにすることを、進言するものである」
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この進言により靖国神社は焼き払いを免れたという<ref name="hiwa"/>。バーン神父もビッテル神父と同趣旨の進言をした。さらに[[1951年]]、[[ローマ教皇庁]]はあらためて1936年の「[[祖国に対する信者のつとめ]]」訓令を再確認している<ref name="Breen"/>。
 
両神父は[[1945年]]8月後半から10月にかけてマッカーサーに個人的な手紙を何通も送り、同時にGHQのスタッフと常時連絡をとっていた<ref name=Mullins/>。マーク・R・マリンズは、こうしたカトリック神父らが靖国神社を救済したという通説は「半分だけ真実」であり、当時の資料からははるかに複雑な経緯がみられると指摘している<ref name=Mullins/>。通説に反して、GHQは、1945年、靖国神社を焼き払いドッグレース場を建設する計画を立ててはいなかった。米国国務省は1944年3月15日付けの文書「覚書――信仰の自由 Memorandum: Freedom of Worship」<ref>“Memorandum: Freedom of Worship.” (15 March 1944) In [http://digicoll.library.wisc.edu/cgi-bin/FRUS/FRUS-idx?type=article&did=FRUS.FRUS1944v05.i0020&id=FRUS.FRUS1944v05&isize=M “Japan”], pp. 1207-1208, which is in [http://digital.library.wisc.edu/1711.dl/FRUS.FRUS1944v05 ''The Near East, South Asia, Africa, and the Far East,'' vol. 5] of Foreign Relations of the United States Diplomatic Papers, 1944, comp. United States Department of State. Washington, D.C.: U.S. Government Printing Office, 1944.</ref>で、国家神道の神社は(日本政府の主張では)宗教施設ではないから、信仰の自由に反さずに閉鎖させることが可能だが、それらを強制的に閉鎖すると国家神道崇拝を強めかねないので存続させる方が国家神道の支配力を弱めるのに有益かもしれないとし、それらの神社の本質とその将来に関する決定をする前にキリスト教の宣教師に相談することを推奨している。マッカーサーはその推奨に従ってビッテルとバーンに接触した<ref name=Mullins/>。ビッテルとバーンが占領期の初期に靖国神社存続のために懇願を行ったことは事実であるが両神父は1945年8月後半から10月にかけて靖国神社を含め様々な問題に関してマッカーサーに個人的な手紙を何通も送り、何度も会い、GHQのスタッフと常時連絡をとっていた<ref name=Mullins/>。しかし、靖国神社存続問題に関するビッテルとバーンの介入の効果は実際は取るに足らないものであり、占領期の終了間際まで靖国神社の存続は危ういままであった<ref name=Mullins/>。しかも、ビッテルとバーンは、靖国神社は宗教的崇拝の場ではなく愛国心を表明する市民的儀礼の場であるという(ローマ教皇庁の1936年の指令に沿う)立場から請願を行ったが、最終的に靖国神社が存続を認められたのは、その宗教的本質がGHQの[[民間情報教育局|民間情報教育局(CIE)]]の宗教課に承認されたためであった<ref name=Mullins/>。信仰の自由の原則の確立を日本政府に要求したGHQは、宗教的な場である靖国神社を廃止してその原則に自ら違反することを避け、1951年8月28日に公布した指令で他の宗教団体と同様の条件のもとで靖国神社の存続を認めた<ref name=Mullins/>。
 
1975年には[[真言宗醍醐派]][[品川寺]]僧侶[[仲田順和]](のち[[醍醐寺]]第百三世座主)が[[教皇]][[パウロ6世 (ローマ教皇)|パウロ6世]]に[[東京裁判]]で戦犯となったものへのミサを行うことを依頼すると、教皇はミサを約束する<ref name="Breen"/>。パウロ6世は1978年に死亡するが、[[1980年]][[5月21日]]、[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|教皇ヨハネ・パウロ2世]]がパウロ6世の遺志を引き継ぎ、[[A級戦犯]]・[[BC級戦犯]]として処刑された人々へのミサが[[サン・ピエトロ大聖堂]]で行われ、1618柱の位牌が奉納された<ref>[[名越二荒之助]]『世界に開かれた昭和の戦争記念館〈第3巻〉大東亜戦争の秘話 』展転社,1999年.</ref><ref name="Breen"/>。