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幕末、[[上山藩]]とともに[[江戸薩摩藩邸の焼討事件]]を起こし、明治政府軍による徳川家武力討伐の口実を作った。
 
[[1868年]]の[[戊辰戦争]]では、慶応2年、松平権十郎を中心とする派閥が公武合体派を攻撃し、逮捕投獄による藩論の統一を経て、[[会津藩]]とともに[[奥羽越列藩同盟]]の中心勢力の一つとなった。但し、奥羽越列藩同盟は会津、庄内の謝罪嘆願を目的としたものであったため、正確には両藩は加盟していない(会津藩と庄内藩で会庄同盟が締結された)。戊辰戦争では、明治政府に与した[[新庄藩]]、[[久保田藩]]領内へ侵攻。当時日本一の大地主と言われ庄内藩を財政的に支えた商人[[本間家]]の莫大な献金を元に商人[[スネル兄弟|エドワード・スネル]]からスナイドル銃など最新式兵器を購入。清川口では攻め入る明治政府軍を撃退。その後に新庄を落とし、内陸、沿岸から秋田へ攻め入った庄内軍は中老[[酒井玄蕃]]率いる二番大隊を中心に連戦連勝、明治政府軍を圧倒した。内陸では[[横手城]]を陥落させた後さらに北進、[[久保田城]]へ迫ったが、新政府側が秋田戦線へアームストロング砲やスペンサー銃等の最新兵器で武装した[[佐賀藩]](正確には佐賀藩内の[[鍋島茂昌#戊辰戦争への出征|武雄鍋島家]])の兵力を援軍として投入したため、戦線は旧藩境付近まで押し戻されて膠着状態となった。
 
列藩同盟盟主の一角である[[米沢藩]]が降伏したため、藩首脳部は撤兵を決断、さらに会津藩も降伏し、庄内藩以外のすべての藩が恭順した。[[明治]]元年[[9月26日 (旧暦)|9月26日]]([[1868年]][[11月10日]])庄内藩も恭順した。結果的には恭順したものの庄内藩は最後まで自領に新政府軍の侵入を許さなかった。なお、戊辰戦争直前には、[[会津藩]]とともに、当時の[[プロイセン]]との提携を模索していことが分かった<ref>2011年2月7日の朝日新聞朝刊10面</ref>。
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