「タンザン鉄道」の版間の差分

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[[Image:Tazara_GE_U30C_Mlimba.JPG|right|thumb|320px|タンザン鉄道の車両]]
[[Image:Ifakara.TAZARA.station.JPG|thumb|320px|[[イファカラ]]の駅]]
'''タンザン鉄道'''(TAZARA、タンザニア・ザンビア鉄道)は、[[タンザニア]]の[[ダルエスサラーム]]と、[[ザンビア]]の[[カピリムポシ]]を結ぶ鉄道。
 
== 概要 ==
[[イギリス]]の植民地[[北ローデシア]]は[[カッパーベルト]]を擁する[[銅鉱石]]の産地であり、植民地時代の[[1925年]]に北ローデシア領内で銅が発見されてから、北ローデシアの銅鉱石は当時[[イギリス領]]だった[[南ローデシア]](現在の[[ジンバブエ]])の[[鉄道]]を経由して[[南アフリカ]]の港湾から輸出されていた。[[1964年]][[10月24日]]に北ローデシアは「'''ザンビア'''」として[[ケネス・カウンダ]]首相の下でイギリスから独立を達成したが、[[1965年]]に[[南ローデシア]]が[[イアン・スミス]]自治政府首相によって一方的に独立を宣言、当時の南アフリカ共和国と同様の[[アパルトヘイト]]政策を実行すると[[国際連合]]は経済封鎖を実行。ローデシアとの通商を閉ざしてしまうが、これによってザンビアは[[ローデシア共和国]](独立に際し南ローデシアから改称)を経由した銅鉱石の輸出が殆ど不可能になり、経済的に苦境に陥った。このため[[ローデシア]]を経由せず[[タンザニア]]の[[ダルエスサラーム]]から輸出することを目的とした鉄道建設が目指された。
 
[[1965年]]に[[中華人民共和国]]を訪問したタンザニアの[[ジュリウス・ニエレレ]]大統領は中華人民共和国当局から鉄道建設を提案され、[[1967年]]のタンザニアとザンビア両政府首脳の訪中後、[[1970年]]7月に中華人民共和国、タンザニア、ザンビアの三国間でタンザン鉄道の建設が最終調印された<ref>[[星昭]]、[[林晃史]]『アフリカ現代史I──総説・南部アフリカ』山川出版社〈世界現代史13〉、東京、1988年8月20日、初版第三刷、234頁。</ref><ref>[[吉田昌夫]]『アフリカ現代史II──東アフリカ』山川出版社〈世界現代史14〉、東京、1990年2月10日、2版1刷発行、250頁。</ref>。中華人民共和国はタンザニア、ザンビア両国に無[[利子]]で計4億320万ドルの借款を与え<ref>[[星昭]]、[[林晃史]]『アフリカ現代史I──総説・南部アフリカ』山川出版社〈世界現代史13〉、東京、1988年8月20日、初版第三刷、234頁。</ref>、約2万人の[[中国人]]労働者と3万人以上の現地労働者の尽力の末、[[1976年]][[7月14日]]に中華人民共和国当局は完成したタンザン鉄道をタンザニア、ザンビア両政府に引き渡し、ザンビアは白人支配国ローデシアや[[アンゴラ内戦]]によって破壊された[[ベンゲラ鉄道]]などを経由しない銅輸出路を確保したのであった<ref>[[吉田昌夫]]『アフリカ現代史II──東アフリカ』山川出版社〈世界現代史14〉、東京、1990年2月10日、2版1刷発行、250頁。</ref>。全長は1859km、軌間は1067mmであった。