「ミュンヘンの悲劇」の版間の差分

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[[ブリティッシュ・ヨーロピアン航空|英国欧州航空(BEA)]]のチャーター機・BE609便は選手の一人が[[パスポート]]を忘れたため[[ベオグラード]]を1時間遅れで出発。当時の[[プロペラ機]]は[[ブリテン島]]まで無着陸飛行する能力がなく、ミュンヘンに給油のために立ち寄った。給油後、2度[[離陸]]を試みるが速度が上がらず中止。不安を感じ当時安全とされた後部座席に移る者もいたが、皮肉にも犠牲者を増す結果となった。午後3時4分、3度目の離陸を試みるが離陸速度に達せず、フェンスを突き破り300m離れた空き家に突っ込み炎上。乗客のうち乳児一人は生存した選手である[[ハリー・グレッグ]]が救出した。
 
西ドイツの調査委員会の報告では当初、原因はの上に付着した氷についてで翼形が変わり、必要な揚力が得られなかったことが原因で、その確認を[[操縦士]]が判断を怠ったためとされた。しかし、68年イギリスの事故調査委員会の調査では、離陸前の写真、救出作業員の証言、関係者証言に基づく実験によって、滑走路上のシャーベット状の氷(スラッシュ)が原因とされた。この事故で得られた経験はこれ以降、世界中の常識となった。事故後11年して操縦士の濡れ衣は晴れたが、事故当時36歳、英空軍出身の機長ジェームズ・セイン(James Thain)は事故後解雇され、心臓発作により54歳で亡くなるまで故郷でひっそりと養鶏で暮らした。
 
== 背景 ==