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戦後は立命館で刑法講座を担当していたが、師の竹田が教職追放により立命館を去り、また京都大学では佐伯の教職追放などによる教員不足のため刑事法研究者を補充する必要が生じ、滝川門下の平場(刑事訴訟法講座担当)とともに刑事学講座担当として迎えられ京都大学助教授に就任した<ref>松尾尊兌『滝川事件以後--京都大学法学部再建問題』京都大学大学文書館研究紀要第2号2004年13p</ref>。
 
[[滝川事件#「第2次滝川事件|滝川事件]]]では平場とともに学生側の特別弁護人に就任し、師の滝川と対立した。その際、同じく特別弁護人に就任した[[田畑茂二郎]]は新聞の取材に、宮内と平場が特別弁護人を引き受けた理由として「教え子たちが世間から見離されてその将来に犯罪者のラク印を押されるかどうかの危機に直面しているのであえて教職から立つと意向をもらしていた」と語っている<ref>京都新聞1958年8月24日</ref>。
 
== 学問 ==