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[[File:Matsuda Michiyuki.jpg|thumb|right|200px|松田道之]]
'''松田 道之'''(まつだ みちゆき、[[天保]]10年[[5月12日 (旧暦)|5月12日]]([[1839年]][[6月22日]]) - [[明治]]15年([[1882年]])[[7月6日]])は、日本の内務官僚・政治家。[[大津県]]令、[[滋賀県]]令(ともに初代)、[[東京府]]知事(第7代)などを務めた。[[沖縄県の歴史#琉球処分|琉球処分]]において中心的な役割を果たしたことで知られる。
 
== 来歴 ==
[[鳥取藩]][[家老]]・[[鵜殿氏]]の家臣[[久保居明]]の次子として生まれ藩医木下主計にはじめ養われのち松田市太夫の[[嗣子]]となる。藩校尚徳館と[[咸宜園]]に学ぶ。幕末は[[尊皇攘夷]]運動に傾倒し、[[明治維新]]後に内務官僚となる。内務大書記官、明治2年(1869年)[[京都府]]大参事、内務大丞などを経て1871明治4(1871年)大津県令に就任。1872年翌年滋賀県令に就任し、明治8年(1875年)、内務大丞に転任。1875年、[[琉球処分官]]として沖縄を視察。以後1879明治12(1879年)まで琉球処分官として3回琉球・沖縄を三度訪問し、1879年の琉球処分断行に尽力した。同年、東京府知事に就任。1882明治15年(1882、若くして死亡した。
 
京都府大参事時代の教師として、京都府顧問[[山本覚馬]]の記載がある。<ref>青山[2013:163]</ref>山本は家では講座を開いて政治や経済に関する講義をされた。これに習った知名の士を挙げると、官員では、[[槙村正直]]松田道之[[藤村紫朗]]らである。松田も藤村も槇村の下の官員で、のち、松田は滋賀県知事東京府知事、藤村も大阪府知事に栄転した。なかでも松田はもっとも山本と親交があった。
 
 
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== 参考文献 ==
*木山竹治著 『松田道之』鳥取県教育会 1925年
*青山霞村原著 住谷悦治校訂、田村敬男編集 『山本覚馬伝』 2013年 [[宮帯出版社]] ISBN 978-4-86366-873-7
*『鳥取藩史』第一巻 鳥取県立図書館 1969年
*青山霞村原著 住谷悦治校訂、田村敬男編集 『山本覚馬伝』 2013年 [[宮帯出版社]] 2013年 ISBN 978-4-86366-873-7
 
== 脚注 ==