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しかしながら、ホーガンは、これら評論家達の声を尻目に、復活からわずか5ヵ月後にメリオン・カントリークラブ18番ホールのプレーオフでロイド・マングラムとジョージ・ファジオを下し、自身2度目となる全米オープン優勝を達成した。また、この後もホーガンは、事故で痛めた片足を引きずりながらも、6つのメジャー大会を含むプロゴルフツアー (PGA) 12勝を達成している。
[[1953年]]に第17回[[マスターズ・トーナメント|マスターズ]]、第53回[[全米オープン (ゴルフ)|全米オープン]](オークモント、選手と観衆を隔てるロープが初めて導入された大会)、第82回[[全英オープン (ゴルフ)|全英オープン]](カーヌスティ)でゴルフ史上初のメジャー大会年間3冠を達成。この年出場したメジャー大会すべてで勝利を挙げるという快挙でもあった。当時のスケジュールでは全米プロゴルフ選手権最終日は全英オープン会期中に設定されたため両方に出場するのは不可能であり、しかも全米プロゴルフ選手権はマッチプレイ形式で1週間ほぼ連日36ホールを戦わねばならず、ホーガンは肉体的負担などを考慮して、キャリアで一度だけ全英オープンを選択して出場したと推測される。全英オープンでは、ディフェンディングチャンピオンの[[ボビー・ロック]]、後に全英を五度制覇した[[ピーター・トムソン]]、[[ロベルト・デ・ビセンゾ]]、[[ダイ・リース]]らの挑戦を退け、2位に4打差をつけて、
引退後は、ゴルフ・クラブ製造会社(その後、キャロウェイ社(Callaway Golf Company)が保有)を創立した。今日でも、彼の名前を冠したゴルフクラブは数多く製造、使用されている。一方、ホーガンが60代後半になるまで、シニアツアーは創設されなかったために、彼はこのツアーには参戦していない。晩年は[[アルツハイマー病]]に悩み、[[1997年]][[7月25日]]に84歳で逝去した。
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