「徳川宗勝」の版間の差分

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| 主君 = [[徳川吉宗]]→[[徳川家重|家重]]→[[徳川家治|家治]]
| 藩 = [[美濃国|美濃]][[高須藩]]主→[[尾張国|尾張]][[尾張藩]]主
| 氏族 = [[川田久保松平家]]→[[高須徳川松平家]]→[[尾張松平徳川家]]
| 父母 = 父:[[松平友著]]、母:湯本氏(繁、円珠院)
| 兄弟 =
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'''徳川 宗勝'''(とくがわ むねかつ)は、[[尾張徳川家]]の第8代[[藩主]]。[[御連枝]]川田久保松平家初代当主、[[高須藩]]四谷松平家の第3代[[藩主]]。
 
川田久保松平家初代・[[松平友著]]([[尾張徳川家]]第2代当主[[徳川光友]]の十一11男)の長男。母は側室湯本氏(繁、円珠院)。[[尾張徳川家]]第4・6・7代当主である[[徳川吉通|吉通]]・[[徳川継友|継友]]・[[徳川宗春|宗春]]兄弟の従弟に当たる。
正室は第4代藩主・徳川吉通の次女・三姫(宝蓮院)。側室は倉林氏(すめ・寿光院)・馬場氏(とせ・清光院)・寺嶋氏(そよ・仙宥院)と多数。
 
== 経歴生涯 ==
=== 尾張藩主就任以前 ===
幼少時は祖母の縁者・[[鈴木重兵衛]]のもとで養育された。その後も低身分の役人の下で幼年期や青年期を過ごしたため、{{要出典|宗勝はこの経験から立派な人物になっていたらしい。|date=2014年4月}}[[幼名]]は'''代五郎'''、のち'''友相'''(ともすけ)、'''友淳'''(ともあつ)と名を改め、[[享保]]17年([[1732年]])、尾張藩の支藩・[[高須藩]]の[[松平義孝]]の養嗣子となってその跡を継いだ。高須藩時代は'''松平義淳'''(まつだいら よしあつ)と名乗る。しかし、[[元文]]4年([[1739年]])正月13日、尾張藩主であった従兄の宗春が将軍・[[徳川吉宗]]によって強制的に隠居させられると、その跡を継いだ(高須藩主は三男の[[松平義敏]]が継承、また厳密には宗春の養子となったわけではなく、一旦収公された藩領を宗勝に下す形で尾張藩を引き継いだ)。のち将軍・吉宗から[[偏諱]]の授与を受けて'''宗勝'''と改名。