「オール与党」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
射法訓 (会話 | 投稿記録)
要出典タグ貼り付け・その他整理
→‎地方自治体でのオール与党: (民主党前後で整理)
2行目:
 
== 地方自治体でのオール与党 ==
=== 民主党発足までの状況 ===
[[1980年]]の[[社公合意]]以降、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]・[[日本社会党#日本社会党 (1945-1996)|日本社会党]]・[[公明党]]・[[民社党]]など[[日本共産党]]を除く全ての政党が地方自治体首長選挙において同一候補を[[推薦]]・支持する体制が常態化し、これは「オール与党・総与党体制」としてしばしば批判の対象となっている。国政政党野党が国政政党与党候補を支持することは「'''相乗り'''」と表現されることが一般的である。稀に、国政政党保守与党が国政政党革新野党候補を支持することもある。例として、滋賀県の[[武村正義]]、神奈川県の[[長洲一二]]、世田谷区の[[大場啓二]]などでは日本共産党が与党相乗り候補に相乗りして支援した。社会党や民社党が衰退し、民主党が第一野党になってからも続いていた。
[[1980年]]の[[社公合意]]以降、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]・[[日本社会党#日本社会党 (1945-1996)|日本社会党]]・[[公明党]]・[[民社党]]など[[日本共産党]]を除く全ての政党が地方自治体首長選挙において同一候補を[[推薦]]・支持する体制が常態化した。
 
国政政党での野党が国政政党での与党候補を支持することは「'''相乗り'''」と表現されることが一般的である。社会党が[[1948年]]の[[片山内閣]]崩壊後は[[1994年]]の[[村山内閣]]まで野党として活動し、一方で自他共に保守勢力の代表と認める自民党は[[1993年]]から[[1994年]]の[[非自民・非共産連立政権]]と[[2009年]]から[[2012年]]までの[[民主党 (日本 1998-)|民主党]]政権を除く大半の期間で与党となっていたため、与野党相乗りは事実上、自民党が推す保守系の候補者に革新・中道系の各政党が同調する形で実施された。
 
この傾向は、まず[[1960年]]に発足した民社党(当時の民主社会党)が、[[社共共闘]]で自民党政権との対決を重視する当時の社会党の方針への反発もあり、多くの知事選で自民党への相乗りをした事から始まった。次いで、1970年代後半以降に党の基本政策を転換して民社党との「中道勢力の結集」を理由に自民党との協力を強めた公明党がこれに加わり、上記の通り1980年代に[[社公民路線]]へと向いた社会党がさらに追うという形で実現した。この経緯もあり、「相乗り」の中でも社会党の影響力は限定的なものだった。
 
一方、稀に、国政政党の保守与党が国政政党の革新野党候補を支持することもあった。例として、滋賀県の[[武村正義]]、神奈川県の[[長洲一二]]、世田谷区の[[大場啓二]]などは、日本共産党も含む社共共闘、あるいは民社・公明両党まで含む全野党共闘によって当選した「[[革新自治体]]」系の首長に対し、県政(区政)野党として影響力が低下していた自民党がその再選時に政策協定を結んで与党に返り咲くという経緯をたどった。これらの場合では当選当初から進めていた政策の多くがその後も引き継がれ、社会党の影響力は維持されたが、当初は重要な支持母体の一つだった共産党は首長による自民党政権への迎合や政策転換を理由にこの「オール与党」体制から離脱して、後に対立候補を出す場合もあった<ref>例えば長洲に対しては、1975年の初当選時には社会党と共に「明るい革新県政をつくる会」を組織してその中核となったが、1987年の四選時と1991年の五選時には県政与党から離脱し、独自候補を擁立した。出典:「平和ですみよい神奈川民主県政をつくる会」、「[http://www.minsyukensei.jp/about 会について]」</ref>。
 
=== 民主党発足後の状況 ===
「オール与党」体制の維持は、社会党や民社党が衰退し、その旧勢力を取り込んだ民主党が社会党に代わる第一野党になってからも続いていた。
 
2006年4月に[[小沢一郎]]が[[民主党代表]]に就任してから政令指定都市・都道府県の首長選挙で原則相乗り禁止の方針を打ち出した。このことによりオール与党体制は改善するとの見方もあった。しかし実際には、[[香川県|香川]]、[[愛媛県|愛媛]]、[[和歌山県|和歌山]]、[[福井県|福井]]、[[三重県|三重]]、[[奈良県|奈良]]、[[鳥取県|鳥取]]、[[島根県|島根]]、[[徳島県|徳島]]など、殆どの自治体で自公社と同一の候補を支援したり、「自主投票」として候補者を立てられないなど、方針は十分に実行されなかった(ただし、三重は前回独自候補として当選させた候補に、与党の側から乗って来たものである。しかし、徳島では前回民主などの推す現職が与党候補に敗れ、その後対立候補と協調路線を取った)。また、[[政令指定都市]]以外の市区町村については現在も相乗りが容認されている。対立候補を擁立できない原因は、現行の選挙制度では高齢批判や[[多選]]批判、大きなスキャンダルなどの無い現職候補に勝つのが難しいことが挙げられる。{{要出典範囲|政策面でも民主党と自公との対立は余り無く、採決や請願採択などの行動においてもほぼ同じなため、共産党など他の野党との共闘は進んでいない|date=2014年1月}}。
16 ⟶ 26行目:
[[新党日本]]や[[自由連合 (政党)|自由連合]]など小政党は、地方自治体レベルの選挙では推薦・支持する候補を決定しない場合も多いが、野党候補が立候補していても自公推薦候補を支援することが多い。自由連合は、2006年に[[徳田毅|德田毅]]代表が自民入党の上自民の「友好団体」となることを表明し、名実共に与党化した(自由連合は2010年解散)。ただし、[[新社会党]]は、地方自治体の選挙では日本共産党が推薦・支持する候補を支援することが多い。
 
例外として、[[沖縄県|沖縄]]では与野党相乗りが少なく、地域政党の[[沖縄社会大衆党]]が反保守共闘の中心になっている。そのため、オール与党体制とはなっていない。また、特殊な事例ではあるが、[[滋賀県|滋賀]]で2006年に行われた[[滋賀]]知事選挙では[[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]]支持の[[嘉田由紀子]]が自民党・公明党・民主党が推薦する候補者を破った。
 
=== 批判 ===
上記の「オール与党・総与党体制」は、しばしば批判の対象となっている。
 
{{要出典範囲|地方議会で共産党を排除する談合体質が常態化したこと、共産党以外の政党が自公の政策にほぼ賛同するようになった結果、議会のチェック機能を果たせなくなり、財政赤字・[[談合|官製談合]]などの諸問題を放置することが多くなったと言われている。また、事前に選挙結果の予想がつくことが多いために住民の選挙に対する関心が低下し、相乗りが行われた都道府県知事選挙や市町村長選挙の[[投票率]]は、他の選挙と同時に行われた場合などを除いて低くなっている|date=2014年1月}}。
 
また、「オール与党」体制の候補者が選挙に出た場合、対立候補は落選しながらも、その基礎票を大きく上回る得票を得る事がある。一例として、[[1979年]]と[[1983年]]の神奈川県知事選挙では自民党が後乗りして「オール与党」体制になった長洲一二に対し、[[日本労働党]]から山本正治が挑戦した場合がある。同党は国政にも神奈川県内の自治体にも議員を送れず、山本自身も当時の中選挙区制の[[神奈川県第2区 (中選挙区)|神奈川2区]]では得票率1%未満での落選を繰り返す「[[泡沫候補]]」の実力しかなかったが、この県知事選では1979年に19万票、1983年には36万票を獲得した。特に後者では得票率が10%を大きく超えた上、文字通りの[[一騎討ち]]となったために山本の経歴や主張が長洲と同格で大きく扱われた<ref>その後は共産党が長洲とその後継の[[岡崎洋]]に対立候補を擁立したが、山本は1999年まで県知事選に立候補を続け、1995年には自己最多の45万票となって共産党推薦候補の半分以上の得票を記録した。</ref>。
 
==「相乗り」と「共闘」について==