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ヘイズは[[オハイオ州]][[デラウェア (オハイオ州)|デラウェア]]で生まれ、ロウワー・サンダスキー(現在のフリーモント)で弁護士を開業し、1858年から1861年までシンシナティの法務官を務めた。南北戦争が始まると、好調な政治活動を離れて北軍に加わる。彼は5度も負傷し、最も重い負傷は[[サウス山の戦い]]でであった。戦闘における勇気と功績で名声を得、少将まで昇進した。戦後は共和党員として1865年から1867年まで下院議員を務めた。議員退職後[[オハイオ州知事]]選に出馬し、二期を務める。二期目の終了後弁護士業を再開したが、1875年に知事の三期目を務めた。
 
1876年、ヘイズはアメリカ史上[[1876年アメリカ合衆国大統領選挙|最も議論を呼んだ選挙]]の結果大統領に就任した。彼は民主党候補、[[サミュエル・ティルデン]]に一般投票では敗れたものの、選挙委員会が資格に疑問の余地があった選挙人票20票全てをヘイズのものとし、ヘイズは選挙人選挙を185対184で制し、僅差で大統領の座を得た。結果は{{仮リンク|[[1877年の妥協|en|Compromise of 1877}}]]となり、民主党はヘイズの選挙を黙認し、ヘイズは南部の軍事占領の終わりを受け入れた。
 
ヘイズは能力主義の政府、人種に関係ない平等な待遇、および教育による改良を信じた。彼は[[1877年の鉄道大ストライキ]]を鎮圧するよう連邦軍に命じ、レコンストラクションが終了すると連邦軍の南部撤退を命じた。彼は1880年代から90年代にかけて控え目な官庁改革を実行し、それは更なる改革のために土台となった。ヘイズは大統領再選に出馬しないという誓いを守り、オハイオの自宅に退き、社会および教育改革の支持者となった。