「瑞子女王」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
6行目:
[[正安]]2年(1300年)、[[室町院]]が死去した際、かつて宗尊親王がその遺領を受け継ぐ取決めになっていたため、その娘の瑞子が所領を相続することとなった。室町院領は、[[後高倉院]]から[[式乾門院]]、室町院と相承されたもので、金剛勝院領・六条院領・七条院領・後高倉院法華堂領等を含む100余ヵ所からなる規模の大きいものであった。正安3年(1301年)、幕府により、瑞子はそのうち50余ヵ所を相続し、残りを[[大覚寺統]]([[亀山天皇|亀山上皇]])と[[持明院統]]([[伏見天皇|伏見上皇]])で折半するよう取り決められた。
 
翌正安4年([[1302年]])1月20日、瑞子は[[准三宮]]となり、[[院号]]の宣下を受けた('''永嘉門院''')。亀山上皇の[[猶子]]となってのことであるが、后妃でなく、皇女([[内親王]])でない孫女王への女院号宣下は異例の事であった<ref>「先故中務卿宗尊親王女瑞子三十歳。後嵯峨院皇孫。母堀川故大納言通具孫女。有准三宮宣下。加賜五百戸于本封外。次有院号定。無立親王及叙品等。凡皇孫女院号無先蹤。是為一院御猶子故云。号永嘉門院。」『続史愚抄』乾元元年一月二十日</ref>さらに、瑞子は[[後宇多天皇|後宇多上皇]]の[[後宮]]に入ったため、その所領は大覚寺統(亀山上皇・後宇多上皇)の管轄するところとなった。しかし、これに持明院統(伏見上皇)が反発し、幕府に異議を申し立て、瑞子が相続した室町院領も両統で折半することに決定した。20年を経た[[元亨]]3年([[1323年]])、永嘉門院は幕府に対し使者を送って所領に対する訴訟を起こしたが、結局訴えは退けられた。
 
所領のこともあってか、後宇多上皇からは重んじた扱いを受けた<ref>「中務の宮(宗尊親王)の御女もおしなべたらぬさまにもてなし聞え給ふ。すぐれたる御おぼえにはあらねど、御姉宮([[掄子女王]])の、故院(亀山院)に渡らせ給ひしよりは、いと重々(おもおも)しう思しかしづきて、後には院号ありき。永嘉門院と申し侍りし御事なり。」『増鏡』巻十二「浦千鳥」 </ref>。子女はなし。[[後二条天皇]]の皇子・[[邦良親王]]を養子とした<ref>邦良親王の父・後二条天皇の生母は、堀河具守の娘・[[堀川基子|西華門院基子]]であり、瑞子女王の母とは同門の縁戚である。また、邦良親王の正妃[[崇明門院]]は、瑞子女王の姪にあたる。</ref>。
 
元亨4年([[1324年]])6月、後宇多上皇が没したため、7月29日に落飾。法名を'''妙法智'''とした。元徳元年(1329年)死去。享年58。
 
== 脚注 ==
17行目:
== 参考文献 ==
*[[上田正昭]]他『日本人名大辞典』講談社、2001年
*「卜部兼好と周縁の人々:『兼好法師家集』207番「これとしの朝臣の家にて」を視座として」(『金沢大学大学院人間社会環境研究』23号、上島眞智子、p85-71、2012年)
 
{{DEFAULTSORT:すいししよおう}}