「平賀譲」の版間の差分

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s/復元力/復原力/
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上述の失態や暴挙をかばい立てできなくなった山本は、大正12年10月1日付で平賀に欧州への技術調査を命ずるとともに、海軍を退職した。後任の[[藤本喜久雄]]の最初の仕事は、連装砲塔装備の改古鷹型である青葉型の設計、妙高型の水雷兵装の復活という、平賀設計の問題視された部分の改定であった。藤本は主砲10門はそのままに魚雷装備と両立させ、用兵側を大いに喜ばせた。だが、用兵側の要求より高い目標で応じる藤本設計が、後の悲劇となる。
 
条約時代の[[千鳥型水雷艇|新型水雷艇]]や[[吹雪型駆逐艦|新型駆逐艦]]、[[最上型重巡洋艦|新型軽巡洋艦]]は、平賀が左遷されていた時期に藤本が設計しているが、復力不足で[[友鶴事件]]、[[第四艦隊事件]]を起こした。平賀設計に輪をかけた重武装が、トップヘビーを招いたのが原因であった。平賀が担当していれば事件は起きなかったという見解もある。ただし、平賀の設計した駆逐艦[[早蕨 (駆逐艦)|早蕨]]も復力不足による転覆沈没事故を起こしている。
 
艦政本部長の[[山梨勝之進]]は帰朝した平賀を海軍技術研究所造船研究部長に任じ、設計部門への復帰を許さなかった。金剛代艦の設計時においては、技術検討会議の席上で設計部門ではない海軍技術研究所所長でありながら私案を提出し再び批判を浴びたが、副砲を高速航行時には使用できないケースメート式にする(対駆逐艦戦闘に使用する事ができない)、後檣楼が省かれたために予備の射撃指揮所が無いなど設計の内容でも酷評を受けている。平賀はこのときの設計案においても連装、3連装の混載を主張した。このころには「船作りは上手いが軍艦作りの能力の無い造船官」という評価であったという<ref>遠藤昭『戦艦大和』(サンケイ出版、1981年)</ref>。