「新井白石」の版間の差分

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徳川綱吉は多額の支出をして寺社を建立して祈祷し、[[生類憐れみの令]]を出したが、結局子宝に恵まれず、徳川綱豊を将軍世子として西丸に入れた。
 
[[宝永]]6年([[1710年]])綱豊は名を家宣と改め、将軍となった。家宣は将軍に就任すると、側用人の[[松平輝貞]]・[[松平忠周]]を解任し、大学頭[[林信篤]]を抑えて、白石にその職責の大半を代行させた。ここ家宣は甲府家から白石や[[間部詮房]]を自身の側近として、後に[[正徳の治]]と呼ばれるようになる政治改革を行った。白石の身分は500石取り(のち[[正徳 (日本)|正徳]]元年1,000石に加増)の本丸寄合、すなわち無役の旗本なので、御用部屋に入るわけにはいかない。そこで家宣からの諮問を[[側用人]]間部が白石に回送し、それに答えるという形を取った。幕閣でも側用人でもない一介の旗本が、将軍侍講として幕政の運営にこれほどまでに関与したのは、この白石をおいて他に例を見ない。なお、信篤とは'''[[三綱]]の変'''で激論になった逸話もある<ref>NHK大河ドラマ『[[八代将軍吉宗]]』でも触れられている。</ref>
 
白石の政策は旧来の悪弊を正す理にかなったものではあったが、「[[徳川家康|東照神君]]以来の祖法変ずべからず」とする幕閣とは齟齬をきたし、やがて両者の間には深刻な軋轢が生じるようになる。自らが主張することに信念を抱き、誰が何を言って反対しても臆することなく、最後には「上様の御意」でその意見が通るので、白石は旧守派の幕臣からは「'''鬼'''」と呼ばれて恐れられるようになった。