「長岡京」の版間の差分

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[[785年]](延暦4年)の正月に宮殿で新年の儀式を行ったが、これは都の建築開始からわずか半年で宮殿が完成していたことを意味する。その宮殿建設では、反対勢力や遷都による奈良の人々への影響を意識した段取りをする。当時、宮殿の建設では元あった宮殿を解体して移築するのが一般的であったが、平城京から宮殿を移築するのではなく、難波宮の宮殿を移築した。また、遷都の際に桓武天皇は[[朝廷]]内の改革に取り組み、藤原種継とその一族を重用し、反対する勢力を遠ざけた。
 
しかし、同年9月に造長岡宮使の種継が暗殺された。首謀者の中には、平城京の仏教勢力である[[東大寺]]に関わる役人も複数いた。そして桓武天皇の[[皇太弟]][[早良親王]]もこの叛逆に与していたとされ幽閉・配流となり、親王は配流先に向かう途中、恨みを抱いたまま死去する。親王の死後、日照りによる[[飢饉]]・疫病の大流行や、[[藤原乙牟漏|皇后]]ら桓武天皇近親者の相次ぐ死去、[[伊勢神宮]]正殿の放火、[[平城天皇|皇太子]]の発病など様々な変事が起こったことから、その原因を[[陰陽師]]に占わせたところ、早良親王の[[怨霊]]に因るものとの結果が出て親王の御霊を鎮める儀式を行う。しかし、その直後と2ヵ月後の2度の大雨によって都の中を流れる川が氾濫し大きな被害を蒙ったことから、[[和気清麻呂]]の建議もあって遷都僅か10年後の[[794年]](延暦13年)に[[平安京]]へ遷都することになる。もっとも、789年(延暦8年)の造営大工への叙位記事を最後に長岡京の工事に関する記録は姿を消しており、791年(延暦10年)平城宮の諸門を解体して長岡宮に運ばせたものの、実際には平安宮にそのまま転用されている事から、延暦10年の段階で既に長岡京の廃止決定と新たな都の計画が進められていたと考えられている<ref group="出典" name="ami">網伸也「平安京造営過程に関する総合的考察」『平安京造営と古代律令国家』(塙書房、2011年) ISBN 978-4-8273-12447-7</ref>。
 
== 発掘調査 ==