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その後も元軍は、海上で散発的な襲撃に遭うなどして敗退を重ねた(原文:累戦不利)。
 
九州への上陸が叶わない元軍では、船底は腐り伝染病が流行、食料も不足する。ここに至り、忻都(総司令官)・洪茶丘(高麗人司令官)らは、「皇帝のお話によると、我が軍は6月15日とっくに南宋軍と合流しているはずだったんだが、我が軍が数回戦っても南宋軍は来ない状態である。その将は何をどうするんだ?」と迷ったが、金方慶は「皇帝の命令を奉り、食料を3ヶ月分も携えて来たのだから、後1ヶ月は持ち堪えられる。南宋軍との合流が成されれば、我が軍の勝利は間違いない。」と主張した。その為、元軍は壱岐で南宋軍を待つが、[[少弐]]家を始めとする日本軍が攻撃してきた事と、ちょうど南宋軍が平戸に到着したという報告が来た事で、壱岐を放棄し平戸ヘ向かう。
 
7月、元軍は南宋軍10万との合流を果し、鷹島沖に集結する。しかし船団は、強固な[[元寇防塁]]を盾とする日本側の迎撃や[[松浦党]]の襲撃などにより、九州への上陸を阻まれたまま7月末、折からの暴風雨に曝されて壊滅状態となる。この状況にあっては、徹底抗戦を主張してきた金方慶も作戦の継続を断念せざるを得なかった。破損し漂流する船団に残された兵・水夫の多くは、武士団の討伐を受け討ち取られた。『日本外史』によると、「屍が海を覆い、海の上を歩いて渡れるほどであった」という。また、鷹島などに置き去りにされた将兵は、伐採した木で船を造り帰還しようと試みるも、[[竹崎季長]]ら幕府御家人による掃討戦で全滅する。