メインメニューを開く

差分

→‎生涯: 新聞記事文庫
この頃、中野は「芋づる式」と呼ばれる事業展開で、無機化学から有機化学、人絹、金属精錬、鉱業、と傘下企業を増やし、会社は重化学工業から発展した新興財閥の一つに数えられた。[[1940年]](昭和15年)までに傘下企業は42社に増え、[[日曹コンツェルン]]と呼ばれた。しかし、この急激な成長に会社の資金は枯渇し、組織内に金融機関を持たない新興財閥である日曹コンツェルンは、[[日本興業銀行]]などの国家資金と結び付かざるを得なくなる。
 
また、日本が中国との戦争に泥沼化し、国内の株式が低迷する中、急激に増やした傘下の企業の中にも不採算になる会社が出始め業績は悪化していった。しかし、この苦境の中でも陸軍からの軍需物資の増産要請があり、銀行からの融資<ref>[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10033070&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 「日曹鉱業に千万円融資」『大阪朝日新聞』1940年10月12日](神戸大学新聞記事文庫)</ref>を取り付ける必要に迫られた。そして、融資と引き換えに中野は1940年(昭和15年)に社長から退陣した<ref>[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?LANG=JA&METAID=10032769&POS=1&TYPE=IMAGE_FILE 「日曹首脳更迭」『読売新聞』1940年11月28日](神戸大学新聞記事文庫)</ref>
現在事業を継承している会社は[[日本曹達]]、[[興人]]などである。
戦後、[[1945年]](昭和20年)に日曹コンツェルンは[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の指定する15財閥に数えられ、[[財閥解体]]された。
 
1949年(昭和24年)中野は最初の脳溢血に襲われる。1965年(昭和40年)12月1日に激しい脳溢血に倒れそのまま意識をとりもどすことなく10日逝去した。[[松平保男#会津会|会津会]]会員<ref>『会津会雑誌第61号』1937年</ref>。
 
 
==出典==
13,071

回編集