「安東家忠」の版間の差分

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笑太夫 (会話 | 投稿記録)
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先祖の安藤秀幸(伊賀守)は[[源頼朝]]より恩賞として[[安藤氏]]から安東氏への改名を許可され、安東伊賀守と称し、[[建久]]7年([[1196年]])に[[大友能直]]に御供して下向する。その子の兵部丞が戸次重秀の所領に居住し、子孫は戸次氏の家臣となる。
== 経歴 ==
戸次親家より家老を命じられ、親家の一字を拝領される。次代の鑑連(道雪)からも重用され、笹丸内双雀の[[家紋]]<ref>[[江戸時代]]に[[立花忠茂]]の継室の実家である[[仙台藩]][[伊達氏]]と類似した家紋だったので安東家は家紋を変更した。</ref>と紀伊介の通称、盛高槍12本を拝領される。また、家忠が剃髪すると道雪のの一字を賜る。
 
[[元亀]]元年([[1570年]])に鑑連が立花氏名跡を継いで[[立花山城]]に移る際に御供する。

子の連実は[[永禄]]9年([[1566年]])に戦死したために[[隠居]]すると孫の安東連直が安東家の家督相続するが、隠居後も家老の連判に名を連ねた。『柳河藩享保八年藩士系図』の立花八次郎系譜に掲載される[[高橋鎮種]](主膳入道紹運)が天正9年([[1581年]])に立花宗茂が立花氏養子になる際に家臣に出した覚に「安東紀伊入道」の名が見える。
 
また、『柳河藩享保八年藩士系図』の堀善右衛門系譜に掲載される天正14年([[1586年]])の書状の家老連判の中に「安東紀伊入道雪貢」の名が見える。