「シニフィアンとシニフィエ」の版間の差分

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[[ゴットロープ・フレーゲ]]の指摘にもあるように、シニフィエにあたる「意味(内容)」ないし「概念」という概念は「指示対象」という概念とは必ずしも一致しない。「指示対象」はレフェラン(référent)と呼ばれ、シニフィエとは区別される。最も見すごされされやすいのはこの区別である。
 
[[筒井康隆]]の小説「文学部唯野教授」(1990)の中に、主人公唯野教授が「猫という言葉がシニフィアンで、実際の猫がシニフィエ」と講義する場面があり、これを誤りであると指摘する人たちと、これで問題ないという人たちとのあいだで論争になったことがある。確かに日常的には、「ネコ」というシニフィアンに対して、外界に物質的に実在しているネコがシニフィエ(かつレフェラン)だと考えてもあまり問題がおきないように思われるばあいが多い。しかしシニフィアンとレフェランがあきらかにくいちがうこともある。フレーゲの例にあるように、「[[宵の明星]](the evening star)」と「[[明けの明星]](the morning star)」ではシニフィエ(意味内容・イメージされるもの)は異なるが、レフェランは同じ[[金星]]である(ただしこれは現代人の認識であり、「宵の明星」と「明けの明星」が二つの異なる星を指す(つまりレフェランも異なる)と考えていた時代もあっただろう)。生物の分類学などでも、[[アパトサウルス]]とブロントサウルスのように、別々の[[種 (分類学)|種]]であると認識されていた生物がのちにひとつの種であると判明することもある。あるいは[[ブッポウソウ]]のようにひとつのレフェランを持つと考えられていた種が実は別々の生物だったとわかることもある。また「[[ユニコーン]]」というシニフィアンには、シニフィエはあるが、金星と同じような「外界の指示対象」という意味でのレフェランは(少なくとも現代人にとっては)存在しない。このような例を考えると、シニフィエとレフェランを区別することにはやはり意味がある。しかし、もっと抽象的な概念になると、たとえば「愛」というシニフィアンに対するシニフィエとレフェランはどうちがうのかを客観的に説明するのはむずかしい。
 
== 参考文献 ==