メインメニューを開く

差分

m
南朝との戦において一時は旧直義派との協力関係を構築できたかに見えた尊氏・義詮派だったが、正平8年/[[文和]]2年([[1353年]])には導誉と山名時氏・[[山名師義|師義]]父子が所領問題で対立し、時氏が再び将軍側から離反するという事態を招く。時氏は[[出雲国|出雲]]に侵攻し導誉の部将[[吉田厳覚]]を打ち破り出雲を制圧、そのまま南朝の楠木正儀と連合し6月、京都に突入する。
 
義詮は正平一統破談の後に天皇を奪われ足利政権崩壊の危機を招いた経験から、まず天皇の避難を最優先に行なった。天皇を山門に避難させると、自らは京都に残り京都の防衛を試みたが結局打ち破られ天皇共々東へ落ち延びることになった。この中で導誉の息子[[佐々木秀綱]]が戦死、義詮は美濃にまで落ち延びる。義詮は独力での京都奪還を諦め尊氏に救援を求める。尊氏が鎌倉から上京すると時氏らは京都を放棄し撤退、足利方は京都を回復した。翌年の[[1354年]]4月には北畠親房が病没し、南朝の力は弱まった。
 
元来導誉は佐々木家庶流として武家方の事務官僚として恩賞の沙汰などを取り扱っていた。しかしながら天皇不在という緊急事態の解決や、南朝との戦において功績を示した。よってこの頃から義詮第一の側近としてその存在感は著しく大きなものとなった。彼は事実上の武家方の最高権力者となり政権の舵取りをするようになる。しかしながら彼にはトラブルメーカー的な側面も大きかった。これ以後導誉と対立した武将が武家方から離反もしくは放逐され南朝方に帰順するという政変・戦が繰り返されることになる。
1,530

回編集