「ハインリヒ・フォン・クライスト」の版間の差分

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[[画像:Kleist.jpg|thumb|ハリンリヒ・フォン・クライスト]] '''ハインリヒ・フォン・クライスト Heinrich von Kleist''' ([[1777年]][[10月18日]]-[[1811年]][[11月21日]])は[[ドイツ]]の劇作家、ジャーナリスト。直情奔放で極端に走る性格は当時の社会と馴染まなかったが、その作品は20世紀に入ってから評価が高まり、現代ではドイツを代表する劇作家の一人に数えられている。
 
 
==家族==
{{文学}}
ハインリヒ・フォン・クライストは1777年10月18日(クライストは10日と書いている)[[フランクフルト・アン・デア・オーダー]]で代々続く軍人の家庭に生まれた。クライスト家の出自は、[[ポンメルン]]の古い貴族に由来している。17世紀以来クライスト家は44人の将軍を輩出する名門であり、祖父エーヴァルト・クライストは軍人でありながら同時に詩人でもあってレッシングと交友があった。また親戚には、夭折し、今日では作家として忘れられているが、フランツ・アレグザンダー・クライストがいる。
 
クライストの父、ヨアヒム・フリードリヒ・クライストはフランクフルト駐屯地の歩兵連隊司令部付き大尉だった。彼はカロリーネ・ルイーゼ(旧姓ヴルフェン)との最初の結婚でヴィルヘルミーネ(愛称ミネッテ)とウルリケをもうけたが、後年この二人の姉にクライストは特に親しんだ。1775年父ヨアヒムはユリアーネ・ウルリケ(旧姓パンヴィッツ)と再婚しフリーデリケ、アウグステ・カタリーナ、ハインリヒ、レオポルト・フリードリヒ、ユリアーネ(愛称ユルヒェン)をもうけた。
 
==教育と軍隊時代==
[[1788年]]に父ヨアヒムをなくしたクライストはベルリンの寄宿学校で教育を受けた。[[1792年]]7月からクライスト家の伝統に従って[[ポツダム]]近衛連隊に入営し、[[フランス革命]]に対する干渉戦争に従軍して少年兵としてライン地方で戦った。[[1795年]]になるとクライストは軍隊生活に疑いを持つようになったが、なおしばらく兵営に留まり[[1795年]]に士官候補生、[[1787年]]少尉に任官している。しかし個人的には終生の友リューレ・フォン・リリーエンスターンと共に数学と哲学を学び、いずれは大学へ進学するつもりだった。
 
[[1799年]]3月には我慢のならない軍隊生活を放棄し、家族から反対を受けた人生計画、つまり富でも地位でも名声でもなく精神の修養を積み学問的研究を送るという計画を周囲に明らかにした。
 
==研究と最初の就職==
軍隊を去ったクライストは[[1799年]]4月から生地フランクフルト・アン・デア・オーダーのヴィアドリーナ大学で[[数学]]と[[物理学]]、文化史学、[[ラテン語]]、そして家族を安心させるために官房学(官吏として働くために必要な知識をまとめた学問)を学んだ。クライストが特に興味を持ったのはクリスティアン・エルンスト・ヴュンシュ教授による物理学の講義で、クライストは彼による実験物理学の個人授業も受けている。この時代の多くの作家にとってそうであったのと同じように、自然科学は彼にとって[[啓蒙主義]]的に自己と社会・世界を知る客観的な手段であった。しかし希望を持って学び始めたクライストはすぐに書物によって得る知識に満足できなくなった。このため彼は飽き足りない思いにみまわれていたものの、このような態度は彼のいた環境では多くの理解を得ることはなかった。同じ1799年クライストはヴィルヘルミーネ・フォン・ツェンゲと知り合い、翌[[1800年]]始めには彼女と婚約している。
[[Image:Zenge, Wilhelmine von.jpg|right|thumb|婚約者ヴィルヘルミーネ・フォン・ツェンゲ]]
1800年クライストはわずか3学期学んだだけで大学を離れ、[[ベルリン]]の[[プロイセン王国|プロイセン]]財務省で実習生として働き始めた。これは彼の「精神修養を積む」という人生計画には反しているが、この背景には婚約したヴィルヘルミーネの家族からの官僚になってほしいという期待があった。1800年夏には財務省のために、おそらくは産業スパイのようなものだと思われるが、秘密任務を引き受けている。
 
この職業的、社会的、個人的な悩みを彼は次のように書いている。
「人生は難しいゲームです。…なぜなら人は絶え間なく常に新しいカードを引かねばならず、しかもどのカードが切り札なのかは分からないからです。」([[1801年]][[2月5日]]姉ウルリケ宛)
この悩みは、おそらく[[イマヌエル・カント|カント]]の『判断力批判』を読んだこと、いわゆる「カント危機」を背景に深まった。カントの啓蒙主義の楽天的見解に対する批判はクライストの単純明快な理性への信頼に基く人生計画を一夜にして打ち砕いてしまった。
「我々には真理と呼ばれているものが本当に真理であるのかそれとも我々にそう思われるだけなのかを区別することはできません。…僕の唯一最高の目的は沈んでしまい、僕には最早なにもありません-」(1801年[[3月22日]]姉ヴィルヘルミーネ宛)この危機から逃れるためにクライストは旅行を思い立った。
 
==パリとスイスのツーン湖時代==
1801年春、姉ウルリケと共にクライストは[[ドレスデン]]を通って[[パリ]]へと向かった。しかし旅の意図とは逆に、パリに来たクライストにはそこがフランス啓蒙主義の示したのとは逆の非理性的現実を呈しているように思われた。幻滅を通して再び理性の確実さと歴史の意志に対する疑いが深まったのである。クライストは[[ルソー]]に刺激を受け、農民の生活を志向するようになる。
 
[[1802年]]4月クライストは[[スイス]]に赴き、ツーン湖に浮かぶアーレ島に住み始めた。これは彼の希望に従って一緒に農民的生活を送ろうと望まなかった婚約者ヴィルヘルミーネとの破局を招いた。クライストは既にパリで悲劇『シュロッフェンシュタイン家』の元になる作品を『ゴノレス家』の題名で書き始めており、悲劇『ノルマンの公爵ロベール・ギスカール』もこのころ製作している。さらにその後、喜劇『こわれ甕』にも着手している。
 
[[1803年]]春、クライストはドイツに旅し、ドレスデンでフリードリヒ・ド・ラ・モット・フーケとその友エルンスト・フォン・プフーエルと知り合った。プフーエルと共にクライストは再びパリに旅したが、そこで自らの才能に対する深い疑念にとらわれ、『ロベール・ギスカール』の原稿を焼き捨ててしまう。「天は僕にこの世で最も偉大な富、名声を拒みました」(1803年10月26日ウルリケ宛)クライストはこのとき[[フランス]]軍に加わって「戦死するために」[[イギリス]]遠征に参加しようとする。しかし知人に説得されて再びドイツに戻り、1803年12月ベルリンで外交にたずさわるポストを求めている。
 
==ケーニヒスベルク時代==
1804年中ごろに[[ハインリヒ・フリードリヒ・カール・フォン・シュタイン|シュタイン]]の率いる財務省でしばらく働いた後、1805年5月1日から[[カール・アウグスト・フォン・ハルデンベルク|ハルデンベルク]]の推薦を受けて[[ケーニヒスベルク]]で非常勤職員になり、国家経済理論家のクリスティアン・ヤーコプ・クラウゼから財政について教えを受けた。ケーニヒスベルクでクライストは哲学教授ヴィルヘルム・トラウゴット・コッホと結婚した姉ヴィルヘルミーネに再会している。クライストはこのころ喜劇『こわれ甕』を完成させ『アンフィトーリュオン』の製作にかかり、また悲劇『ペンテジレーア』、『ミヒャエル・コールハース』、『チリの地震』(原題『イェローニモとヨゼーフェ』)などを執筆している。
 
[[1806年]]8月クライストは友人リリーエンスターンに国務から離れて劇作に専念する考えを打ち明けた。しかし官を辞してベルリンに向かう途上の[[1807年]]1月、彼と同行者はフランスの占領軍当局によってスパイ行為のかどで捕らえられ、ブザンソン近郊のジュー砦に収監された。その後シャンパーニュの戦時捕虜収容所へ移されたが、ここで『O公爵夫人』『ペンテジレーア』を書き進めたと考えられている。
 
==ドレスデン時代==
[[画像:Phoebus1.jpg|thumb|left|『フェーブス』創刊号<br>(1808年1月)]]クライストは収容所から解放された後ベルリンを経由して1807年8月の終わりにドレスデンに着いた。ここで彼はさまざまな人物と知り合った。シラーの友人クリスティアン・ゴットフリート・ケルナー、[[ルートヴィヒ・ティーク]]、[[カスパー・ダーフィト・フリードリヒ]]、歴史哲学者アーダム・ミュラー、フリードリヒ・クリストフ・ダールマンなどである。クライストはアーダム・ミュラーと共に[[1808年]]1月『'''[[フェーブス]]'''』を創刊した。この創刊号に「悲劇の断片:ペンテジレーア」として『ペンテジレーア』の一部が発表されたのだが、この号を受け取った[[ゲーテ]]は返信の中で作品に対する驚きを表明しながらも理解できなかったことを伝えている。
 
1808年12月[[スペイン]]における反[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]蜂起やプロイセンの占領状態、[[オーストリア]]における解放闘争の開始などから影響を受けてクライストは『ヘルマンの戦い』を完成させた。(発表は死後の1821年)[[1809年]]5月には高揚する反ナポレオン機運に希望を抱き、ダールマンと共に、ナポレオンが敗れた数日後のアスパーンを通って[[プラハ]]に赴き、ここでオーストリア愛国主義団体と交流しながら『ゲルマニア』という名の週刊新聞発行を企画している。この新聞はドイツ解放運動の機関紙となるはずであったが、オーストリアの無条件降伏のせいでこの企画は実現しなかった。この新聞には彼のいわゆる政治的著作『この戦争はどうなるか』『ドイツ人のためのスペインを手本とした大人も子供も使える教理問答』『フランスジャーナリズムの教科書』、風刺詩にして頌歌『ゲルマニア女神がその子に向かって』などが発表されるはずであった。
 
[[1809年]]11月から一ヶ月彼はフランクフルト・アン・デア・オーダーに帰省したが、その後ベルリンに帰ってからは死に至るまでベルリンで過ごした。
 
==ベルリン時代==
ベルリンでもクライストは多くの人と知り合った。[[クレメンス・ブレンターノ]]、[[ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ]]、[[ヴィルヘルム・グリム]]、カール・アウグスト・ファルンハーゲン・フォン・エンゼ、ラーヘル・ファルンハーゲンなどである。これらの人々ともにクライストは「キリスト教的ドイツ晩餐会」のメンバーとなった。[[1810年]]4月短編集が発行され『ミヒャエル・コールハース』『O公爵夫人』『チリの地震』が収録された。また9月には『ハイルブロンのケートヒェン』が発表されたがベルリン劇場の監督イフラントはその上演を拒絶した。
 
『フェーブス』の休刊ののちクライストは新聞発行を企画し、1810年10月1日『ベルリン夕刊新聞』が創刊された。この新聞は地域のニュースを毎日配信したがその目的として掲げたのは全階級の国民に娯楽を供すること、および国民意識の涵養であった。寄稿者には「ドイツ晩餐会」のメンバーに加えて、[[エルンスト・モーリッツ・アルント]]、[[アーデルベルト・フォン・シャミッソー]]、[[フリードリヒ・カール・フォン・サヴィニー]]、フリードリヒ・アウグスト・シュテーゲマンなどがいた。クライスト自身も『ゾロアスターの祈り』『世界情勢の観察』『ある画家がその息子に宛てた手紙』『最新教育計画』などの記事を掲載している。とくに『マリオネット劇場について』は有名。また、一般の読者にとって特に興味深かったのは最新の警察による発表が掲載されることだった。
 
しかし[[1811年]]春にはこの新聞も厳しくなった検閲のあおりを受けて廃刊となり、プロイセン当局への就職の見込みもふいになったクライストは生活のために書くことを余儀なくされ、1809年から書いていた戯曲『ホンブルクの公子フリードリヒ』を完成させたが、これは1814年まで[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]によって上演を禁じられた。また、このころ『ロカルノの女乞食』『サントドミンゴの婚約』を含む第二の短編集を出版した。「ひどく傷つき、窓から鼻をつき出しているときなど僕の上に注ぐ日の光が痛いと言ってもほとんどいいくらいです」(1811年11月10日マリー・フォン・クライスト宛)
 
生活は苦しく、世間からも認められないクライストは[[自殺]]を決意し、[[癌]]を患った人妻ヘンリエッテ・フォーゲルと共に1811年11月21日ポツダム近郊のヴァンゼー湖畔でピストル自殺した。
 
[[Category:ドイツの劇作家|くらいすとはいんりひふおん]]
{{生没年|くらいすとはいんりひふおん|1777年|1811年}}
[[Category:自殺した人物|くらいすとはいんりひふおん]]
 
[[de:Heinrich von Kleist]]
[[en:Heinrich von Kleist]]
[[eo:Heinrich von KLEIST]]
[[fr:Heinrich von Kleist]]
[[he:היינריך פון קלייסט]]
[[hr:Heinrich von Kleist]]
[[nl:Heinrich von Kleist]]
[[no:Heinrich von Kleist]]
[[pl:Heinrich von Kleist]]
[[sv:Heinrich von Kleist]]
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