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秦の二世皇帝元年([[紀元前209年]])、劉邦が秦に対し蜂起し沛公となると、雍歯も彼に従った。翌年、劉邦は豊を雍歯に任せたが、魏の周市が豊に来ると、雍歯に対して「豊はもとは魏が移住した場所であり、魏は既に数十の城を平定している。今ここで魏に降伏すればお前を侯にして豊を守らせるが、降伏しなければ豊を攻め滅ぼしてやろう」と勧告した。もとより劉邦に属するのを望んでいなかった雍歯は魏に降伏した。それを知った劉邦は激怒して豊を攻めたが、取ることが出来なかった。劉邦は自分に背いた雍歯と豊の人間を恨んだ。やがて勢力を拡大させた劉邦は豊を攻め落としたが、雍歯は脱出した。
 
その後、[[趙]]に属し、その趙が最終的に劉邦に降ったため、雍歯も劉邦に再び属するようになり、功績を挙げた。高祖6年([[紀元前201年]])、漢の高祖となった劉邦は功臣に恩賞として功績に応じて[[列侯]]の位を与えようとしていた。しかし特に大きな功績のあった20人あまりを列侯にした後は、日夜お互いに功績の大きさを争うばかりで決着を見ず、なかなか封侯できないでいた。そんな折、劉邦は諸将があちこちで密談をしているのを目撃し、列侯が与えられない不満や、自分が恨みを買っているために殺されるのではないかという恐れから諸将の間に反乱を企む者もいると[[張良]]から知らされた。劉邦が対策を相談すると張良は劉邦「功績ある武将の中で陛下特に恨一番憎んでおり、それが広く知られていることで有名なは誰ですか」と問うた。劉邦は「雍歯だ。昔、裏切られた恨みから殺したいほどに奴は憎いが、功績挙げているので我慢している」と答えた。張良は「まず雍歯を列侯に封じれば他の者も安心するだろでしょと述べた。そこで劉邦はすぐに雍歯を什方侯(2,500戸)に封じた。諸将はそれを見て「雍歯でさえ封侯されるなら、我々は心配ない」と喜び不穏な状況はみられなくなった。
 
また、高祖12年([[紀元前195年]])、劉邦はゆかりの地沛に逗留した際に沛の徭役を恒久的に免除した。沛の人間は「沛は幸いにして免除を受けましたが、豊がまだでございます」と言った。劉邦は「豊は私が成長した地だから忘れるはずがない。しかし、雍歯に与して私に背き魏についたために免除していないのだ」と言った。沛の人間が強く願ったため、劉邦は豊も免除してやった。