「鄭道伝」の版間の差分

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== 人物 ==
妥協を許さない苛烈な面があり、儒教の教えに背く者や異端と見なした人物は許さず成敗した。彼の改革は師の李穡や師弟の李崇仁など多くの友人にも反感を買ったが鄭道伝はこれらの者も容赦なく粛清し、李崇仁は鄭道伝に殺され、李穡も不慮の死を遂げた。また人を一度憎むようになったら許さなかった。鄭道伝の母・禹氏の母は奴隷と僧の密通により生まれた卑しい身分であった。士大夫の禹玄寶はその禹氏の一族でありこれを知っていたため、鄭道伝は自分の出自を知る禹玄寶がこれを噂したと思い込んで彼を恨み、禹玄寶の息子を三人も殺したとされる。しかしこれは曲筆の多い太宗実録の記録であり、禹玄寶は鄭道伝の政敵の[[鄭夢周]]や李芳遠側についた人物でもあるため鵜呑みにはできない。ともかく彼の性格が苛烈だったことは事実で、第一次王子の乱の時一緒に殺された同志の南誾さえも「道伝は人に恨みを買い斬られたのだ」と言っている。<ref>『太祖実録 14卷』</ref>
 
死の直前、李芳遠に命乞いをし、地を這いずりながら無様に殺されたとされるが、これは潔い彼の辞世や「短剣を隠し持っていた」という同記録の内容と全く辻褄が会わないため、これも鄭道伝の人格を貶める為の曲筆とされる。<ref>『太祖実録 14卷』</ref>
 
また見た目を飾らない適当な面もあり、ある日は半足は白く、半足は黒い靴を履きそのまま馬に乗って庁舎宮殿に出向いた。そんな格好の彼を役人が止めそれをそっと知らせると、鄭道伝は笑って「左からは白いものだけが見え、右からは黒いものだけが見えるはずだ。心配は無用である」と言いそのまま一日をすごしたという。<ref>『筆苑雜記』</ref>
 
父・鄭云敬からの教えにより生涯私腹を肥やすことはなく、流刑時代には友人たちにも見捨てられ貧しい生活に苦しんだ。妻の崔氏が鄭道伝にそのような窮状を訴える手紙を送ったことがあり、彼はもう少し辛抱するよう妻を慰めている。この清廉さは建国以後権力を手にしても変わらなかった。唯一生き残った嫡男の鄭津もまた清廉潔白な政治家として有名であり、鄭津が死んだ後[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]は特別にその葬儀を行うため使者を送り、『実録』にもその人格を記録している。