「ロシア・ツァーリ国」の版間の差分

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[[ジギスムント・フォン・ヘルベルシュタイン]]男爵が『モスクワの諸事に関する記述』を1549年に出版するまで、西欧人にとってロシアは非常に謎の多い社会だった。この書物はこの滅多に訪れず記述されることもない国について、ある程度の知識と理解をもたらした。さらに詳しい情報はイングランドとオランダの商人たちによってもたらされた。彼らのうちの一人である{{仮リンク|リチャード・チャンセラー|en|Richard Chancellor}}は1553年に[[北東航路]]を航海して[[白海]]の[[アルハンゲリスク]]に至り、モスクワに上陸した。彼はイングランドに戻った後、[[セバスティアン・カボット]]、{{仮リンク|ヒュー・ウィロビー|en|Hugh Willoughby}}および数人のロンドン商人達と一緒に[[モスクワ会社]]を設立した。イヴァン4世は彼ら商人を[[エリザベス1世]]との往復書簡を交わすのに利用していた。
 
1530年代から1540年代にかけては国内が混乱をきたしていたが、ロシアは戦争と国家拡張を進めた。イヴァンは1552年に[[ヴォルガ川]]中流域にある[[カザン・ハン国]]を攻めてこれを併合し({{仮リンク|[[ロシア・カザン戦争|en|Russo-Kazan Wars}}]])、[[1556年]]にヴォルガ川が[[カスピ海]]に流れ込む辺りにあった[[アストラハン・ハン国]]を滅ぼした。これらの国・地域を支配下においたことで、ロシアは現在のような多民族・多宗教の国家へと変貌した。ツァーリは今やヴォルガ川流域全域に支配を及ぼし、[[中央アジア]]への足がかりを得た。
 
北西部の[[バルト海]]海域への拡張はより困難な道であった。1558年、[[リヴォニア]]に攻め込んだイヴァンは、その後25年もの歳月を[[ポーランド・リトアニア共和国]]、[[スウェーデン]]および[[デンマーク]]との戦争に費やすことになった([[リヴォニア戦争]])。一時的な優勢も空しく、イヴァンの軍勢は押し戻され、ロシアはバルト海における覇権を獲得することに失敗した。
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[[ファイル:Russia1600.png|thumb|250px|東に拡大するロシア(1600年頃)]]
 
[[1584年]]にイヴァン4世の後継者となったのは、知的障害のある息子[[フョードル1世]]だった。事実上の政治権力はツァーリの妻の兄である大貴族[[ボリス・ゴドゥノフ]]の手に渡った(ボリスは農民が年に1度だけ移動の自由を与えられて仕える領主を変えられる[[聖ユーリーの日]]を廃止したと信じられている)。[[1589年]]、[[モスクワ総主教|モスクワ総主教座]]を設置。総主教座の創設はロシア正教会の分離と完全独立を目指す運動が、頂点に達したことを示していた。[[1590年]]の{{仮リンク|ロシア・スウェーデン戦争 (1590年-1595年)|en|Russo-Swedish War (1590–1595)<!-- 「[[:en:Russo-Swedish War (1590–95)]]」へ、リダイレクト -->|label=ロシア・スウェーデン戦争}}で[[フィンランド湾]]沿岸部を回復。[[イェルマーク]]の敗死([[1585年]])後、再び{{仮リンク|西シベリア|de|Westsibirien}}への進出を再開し、[[1598年]]に[[シビル・ハン国]]を滅亡させた({{仮リンク|シビル・ハン国攻略|en|Conquest of the Khanate of Sibir}})。
 
1598年にフョードル1世が後継者を残さずに死去し、モスクワの[[リューリク朝]]は断絶した。ボリス・ゴドゥノフはボヤーレ、高位聖職者、一般人からなる国家議会[[ゼムスキー・ソボル]]を招集し、自身をツァーリに選出させたが、多くのボヤーレ派閥が彼のツァーリ即位への承認を拒んだ。また大規模な収穫不足が{{仮リンク|ロシア飢饉 (1601年-1603年)|en|Russian famine of 1601–1603<!-- 「[[:en:Russian famine of 1601–03]]」へ、リダイレクト -->|label=ロシア大飢饉}}([[1601年]] - [[1603年]])を引き起こし、ロシア社会に不満が鬱積する中で、1591年に死んだはずのイヴァン4世のもう一人の息子[[ドミトリー・イヴァノヴィチ (ウグリチ公)|ドミトリー]]を名乗る男が現れた。後に[[偽ドミトリー1世]]として知られることになるこの僭称者は、ポーランドの支援を受けてロシアに攻め込み、進軍するうちにボヤーレやその他の勢力からの支持を得るようになった。歴史家は、1605年にゴドゥノフが死ななければこの危機を乗り越えることが出来ただろうと考えている。
 
== 大動乱 ==