「カリフ」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
124.255.1.103 (会話) による ID:49210273 の版を取り消し |
m編集の要約なし |
||
8行目:
西暦[[632年]]にムハンマドが死去した後、イスラーム共同体の指導者として[[アブー=バクル]]が選出され「[[アッラーフ|神]]の[[使徒]]の[[代理人]]」(ハリーファ・ラスール・アッラーフ)を称したことに始まる。2代目のカリフとなった[[ウマル・イブン=ハッターブ|ウマル]]は「信徒たちの長」([[アミール|アミール・アル=ムウミニーン]])という称号を採用し、カリフの称号とともに用いられるようになった。
その後、[[ウスマーン・イブン
オスマン朝は当初、カリフ位の権威に頼らずとも実力をもってスンナ派イスラム世界の盟主として振舞うことができたが、18世紀の末頃から19世紀にかけて、[[ロシア]]などの周辺諸国に対する軍事的劣勢が明らかになると、オスマン帝国内外のスンナ派[[ムスリム]]に影響を及ぼすために、カリフの権威が必要とされるようになった。そこで、[[16世紀]]初頭にオスマン帝国のスルタンはアッバース家最後のカリフからカリフ権の禅譲を受け、スルタンとカリフを兼ね備えた君主であるという伝説が生まれた('''スルタン=カリフ制''')。しかし、オスマン帝国の滅亡によって、[[オスマン家]]のスルタン=カリフは[[1922年]]に退位し、スルタン制が廃止された。インドや中央アジアのムスリムやクルド人は、精神的支柱としてのカリフ制の存続を強く望んでいたが、[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク]]によって1924年にカリフ制も廃止された。[[アブデュルメジト2世]]がイスラム世界で承認された最後のカリフとなる。
|