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'''能勢 頼一'''(のせ よりかず、[[元禄]]3年([[1690年]]) - [[宝暦]]5年[[5月11日 (旧暦)|5月11日]]([[1755年]][[6月20日]]) )は、[[江戸時代]]中前期の[[旗本]]で、[[江戸町奉行|江戸北町奉行]]となった人物。[[能勢頼雄]]の子。通称、甚四郎。官位は従五位下肥後守。室は[[竹田政就]]の娘。子女は[[菅沼武勝]]室、[[能勢一英]]、ほかに女子ひとり。
 
父の能勢頼雄が没し、元禄3年12月に1歳で跡目相続し[[小普請]]となった。[[宝永]]4年([[1707年]])11月、小性組番士、宝永6年12月に小納戸、享保12年(1727年)6月、小十人頭を歴任し、同12月、[[布衣]]を着することを許された。宝永14年11月、小性組組頭に昇進し、宝永20年10月、目付となった。寛保元年には、500石を加増されそれまでの蔵米100俵も知行地に改められ、武蔵国埼玉郡、上野国邑楽郡内600石を知行することとなった。[[延享]]元年([[1744年]])6月には町奉行にまで昇進し、同年12月、従五位下肥後守に叙任された。宝暦3年([[1753年]])3月、西ノ丸旗奉行となった。宝暦4年11月、職を辞し寄合となり、宝暦5年(1755)5月に66歳で没した。