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Hisseas (会話 | 投稿記録)
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[[1988年]]にTERU・TAKUROを中心に結成。その後TAKUROの高校時代の友人であったHISASHI、さらに上京後、地元が一緒で顔見知りだったJIROを加え、[[1994年]][[5月25日]]にシングル「[[RAIN (GLAYの曲)|RAIN]]」でメジャーデビュー。[[1995年]]に「[[Yes, Summerdays]]」が注目を受け、[[1996年]]に「[[グロリアス (GLAYの曲)|グロリアス]]」がヒット。その後2ndアルバム『[[BEAT out!]]』が[[オリコンチャート|オリコン]]初登場1位を獲得。以降「[[BELOVED (GLAYの曲)|BELOVED]]」「[[口唇 (GLAYの曲)|口唇]]」「[[HOWEVER]]」などがヒット。[[1997年]]に発売の[[ベスト・アルバム]]『[[REVIEW-BEST OF GLAY]]』が当時の歴代アルバムセールス1位の約488万枚を記録し、[[1999年]]の[[ギネス世界記録|ギネスブック(現・ギネス世界記録)]]に「'''日本で最も売れたアルバム'''」として掲載された。また1998年2月にはコンサートチケット予約の電話が殺到して電話回線がパンクするという事態も起き、その出来事が新聞に掲載されるほどにまで人気が絶頂した。
 
それ以後も[[1998年]]に同時リリースされた「[[誘惑 (GLAYの曲)|誘惑]]」(年間シングルランキング1位)「[[SOUL LOVE]]」(同5位)などヒット曲を連発。「[[サバイバル (GLAYの曲)|サバイバル]]」が歴代ビデオシングル1位の約90万枚を記録。同年[[1999年2月15日]]3月には[[東京ドーム長野オリンピック]]で5日間ライブを決行。同年7月31日、[[幕張メッセスキージャンプ]]屋外有料駐車場で、単発コンサート『[[GLAY EXPO#GLAY EXPO '99 SURVIVAL|MAKUHARI MESSE 10TH ANNIVERSARY GLAY EXPO'99 SURVIVALラージヒル]]』を行い1公演で観客'''20万人'''を動員(2014年現在の競技の最中だった午前10時頃から約2時間に亘って日本最多、単独アーティストの有料ライブ全国的限れば世界最多の動員数)。多電話回線が通じにくなる事態が発生し、ディアは、当日の模様を報じ、インプレセンタツ紙のみならず一般紙の1面掲載されなど、社会現象報道関係者の送信事務が困難になった。12月には「他、[[Winter,again国際電話]]」で[[第41回日本レコード大賞]]を受賞(後もつながり、レコード大賞受賞を巡くくなり、解散各国記者、報道も大きってい影響を与え。原因はの日午前10時からGLAYの全国コンサートツアーの前売券約11万5千枚明らかになっ発売開始され、その電話予約が殺到しためとされている。<ref>[[スポーツニッポン]] 1998年2月16日31面『GLAY人気で五輪回線パニック』</ref>
[[1999年]]3月には[[東京ドーム]]で5日間のライブを決行。同年7月31日、[[幕張メッセ]]屋外有料駐車場で、単発コンサート『[[GLAY EXPO#GLAY EXPO '99 SURVIVAL|MAKUHARI MESSE 10TH ANNIVERSARY GLAY EXPO'99 SURVIVAL]]』を行い1公演で観客'''20万人'''を動員(2014年現在日本最多、単独アーティストの有料ライブに限れば世界最多の動員数)。多くのメディアは、当日の模様を報じ、スポーツ紙のみならず一般紙の1面に掲載されるなど、社会現象になった。12月には「[[Winter,again]]」で[[第41回日本レコード大賞]]を受賞(後に、レコード大賞受賞を巡り、解散の危機になっていたことが明らかになった)。
 
バンド解散の危機を乗り越え、2000年代に入ると独自のスタイルでの活動へと方向性を定め始め、『[[GLAY EXPO]]』や『HOTEL GLAY』などの大規模野外ライブに代表されるようなライブ活動を積極的に行っている。この年代において特筆すべきライブとしては、[[2002年]]に[[日中国交正常化]]30周年を記念して[[北京市|北京]]にて『GLAY ONE LOVE in 北京』を決行したことが挙げられる。(中国音楽史上最大規模の5万人を動員)この時には中国最高指導者[[江沢民]]への表敬訪問を実現した。