「伊藤文隆」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
35行目:
 
== 来歴・人物 ==
大同工業高校(現:[[大同大学大同高等学校]])から、[[1972年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1972年のプロ野球ドラフト会議]]で[[中日ドラゴンズ|中日]]から5位指名を受けるも入団を拒否。その後、社会人野球の三協精機(現:[[日本電産サンキョー]])を経て、[[1977年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1977年のドラフト]]で阪神から1位指名を受け入団。右腕からの[[速球]]を武器に{{by|1981年}}からローテーション入りを果たし{{by|1982年}}には10勝を挙げる活躍を見せる。[[1988年]]は、前年の1987年を白星なしの9連敗でシーズンを終えたことから、背番号を14に変更して臨み、開幕から2戦2完封勝利と好調であった。しかし4月27日の[[大洋ホエールズ|大洋]]戦において[[池之上格]]の放った一塁ゴロで、一塁ベースカバーに入った際、池之上にスパイクされ右踵を裂傷。以来成績が振るわず、{{by|1991年}}に現役引退。打撃では1987年9月9日の甲子園での[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]戦で本塁打を記録している
 
引退後は、サラリーマンとしてアパレル企業の[[トレンザ]]で営業職を務める<ref>『12球団全選手カラー百科名鑑2000』P215に掲載の解説者名鑑。</ref>。{{by|1996年}}以降は、[[サンテレビジョン|サンテレビ]]と[[ABCラジオ]]({{by|2009年}}から)の[[野球解説者]]として活動していた。{{by|1995年}}から{{by|1998年}}までは[[日刊スポーツ]][[野球評論家]]も務めた。[[ゴーストライター]]に頼らない貴重な評論家として野球名鑑に紹介されたこともある<ref name="12kyudan_1998_p202" />。