「フランシスコ・デ・ミランダ」の版間の差分

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半島戦争に紛れて、[[1810年]][[4月19日]]、[[ベネズエラ第一共和国]]をシモン・ボリバルや[[アンドレス・ベージョ]]と共にミランダは成立させた。そして英国に使節を派遣し、政府の承認及び援助を求めた。ミランダは更に[[ジャコバン派]]に倣った政治結社を設立し、周辺の植民地に独立と個人の概念を広めた。そしてミランダは議会によって自らの名前を冠したムニシピオである[[アンソアテギ州]][[フランシスコ・デ・ミランダ (アンソアテギ州)|フランシスコ・デ・ミランダ]]の代表となった。更に議会は国旗を[[三色旗]]とする事も策定した。
 
[[File:Miranda en la Carraca by Arturo Michelena 26.JPGjpg|thumb|275px|left|''ガラクタのミランダ''(1896年、[[アルトゥーロ・ミチェレーナ]]作、油絵、縦196.6cm、横245.5cm、カラカス国家美術館所蔵)。カディスの牢獄の中で最期の日を過ごすミランダを描いている。]]
翌年になると王党派の叛乱により、第一共和国は領土の拡大に挫折した。加えて、[[カカオ]]の[[プランテーション]]農業が改善されなかったため、貧困層からの支持率は低迷した。更に[[1812年]][[3月26日]]に[[カラカス大地震]]が発生し、主に共和国側の地域が潰滅的な打撃を受けた。地震の発生が[[聖木曜日]]であったこともあり、国民はこれを神が共和国を認めない意思を示した結果と捉えて、叛乱は大規模化した。[[6月4日]]には[[バルセロナ (ベネズエラ)|バルセロナ]]が王党派の手に落ちた。加えて[[ファン・ドミンゴ・デ・モンテベルデ]]率いるスペイン王国海軍が上陸、市民がスペイン王国海軍に加勢し、ミランダはベネズエラ中心部の僅かな領域のみでしか権力を行使できない状況に陥った。<ref>Parra-Pérez, Caracciolo. ''Historia de la Primera República de Venezuela'' (Caracas: Biblioteca de la Academia Nacional de la Historia,1959), 357–365.</ref>第一共和国は[[非常事態宣言]]を発令、ミランダを[[大元帥]]に任命した物の、スペイン王国軍が7月半ばに[[バレンシア (ベネズエラ)|バレンシア]]を占領し、ミランダは絶望的状況に追いやられた<ref>Trend, J.B. ''Bolivar and the Independence of Spanish America'' (New York: Macmillan Co, 1946), 80–83.</ref>。[[7月25日]]にミランダはスペイン王国側と[[休戦協定]]を締結し、王党派が到着する以前に、ラグアイラから英国の船で国外脱出したが、シモン・ボリバル等から[[外患罪]]を問われ、最終的にスペイン王国軍にミランダは捕えられた。この背景にはシモン・ボリバルはミランダを反逆者として処刑したかったが、周囲がそれを阻止した経緯があった。と言うのもシモン・ボリバルは、和平条約をスペイン帝国が気にかけていることをミランダが信じているならば、彼は条約通りに動くだろうし、そうで無いならば彼は叛逆者となり、軍に殺されるだろう、と言う解釈をミランダに対してしていたのである<ref>Trend J.B. ''Bolivar'', 85, quoting contemporary English Colonel Belford Wilson and adding that many republican officers were in fact "imprisoned or shot."</ref>。しかし、皮肉な事に、ミランダによってこの解釈はスペイン帝国側に伝わり、ミランダが逃亡する機会を与えた。
 
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