「G.G.佐藤」の版間の差分

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大学時代は内野手としてプレーするがレギュラーの座を奪うことができず、本塁打も通算で1本のみだった。公式戦で外野守備に就いたことは無く、[[後藤武敏]]の控えとして後藤が一塁に移動した後に三塁を守った試合が多かったほか、大学3年秋には[[シドニーオリンピック]]予選に出場した[[阿部真宏]]の代わりに[[遊撃手]]として出場した(4年春にも遊撃手としての出場がある)。この時の体重は104キロで、現在に至るまでの「東京六大学リーグ公式戦に先発出場した遊撃手」として史上最重量<ref>週刊ベースボール増刊『東京六大学野球特集号』『大学野球』1989年秋号~2010年秋号。1999年秋号に掲載された体重は80キロで、実際は104キロだったと明かしたのは卒業後の2001年春号に掲載されたインタビューでのこと。</ref>。体重は3年春から秋にかけて25キロ増えた<ref>週刊ベースボール増刊『大学野球』2001年春号掲載のインタビューより。大学3年だった1999年春号に掲載された体重は80キロ。根鈴の件も含め2001年春号に掲載されている。</ref>が、これはレギュラーを掴めないことに危機感を抱き、「変わりたいんです」と1学年上の[[根鈴雄次]]に相談、そして一緒にトレーニングを積んだ結果である。チームメイトに[[廣瀬純]]がおり、大学卒業後は廣瀬に追いつき、追い越すことが目標だったという。2008年に廣瀬と再会した時、廣瀬から「お前、すごい選手になったな! 完全に抜かれたわ!」と言われた時は素直に嬉しかったという。
===フィリーズ傘下時代===
{{節stub}}
卒業後、[[マイナーリーグ]]・[[フィラデルフィア・フィリーズ]]1Aに入団。大学時代から引き続き[[内野手]]としてプレーしていたが、フィリーズ1Aで[[強肩]]を見込まれ捕手にコンバートされた。
===フィリーズ傘下退団後===
{{by|2002年}}に帰国したのち、[[ジャニーズ事務所]]に所属するタレントを警備するアルバイトを経験しつつ受けた[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]の入団テストで[[伊東勤]]に見出され、[[2003年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|2003年のプロ野球ドラフト会議]]では西武が7巡目指名で交渉権を獲得し契約金2000万円、年俸700万円(金額は推定)で入団合意した<ref>『朝日新聞』2003年11月24日付朝刊 (14版、19面)</ref>。