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== 来歴 ==
[[1921年]](大正10年)[[3月3日]]、東京の下町に生まれる。旧制[[郁文館中学校・高等学校|郁文館中学校]]([[開成中学校・高等学校|開成中学校]]卒業との記述もあり<ref>『手塚治虫とボク』(うしおそうじ著、草思社)</ref>)卒業後、[[日本映画社]]で動画スタッフとなり、「線画」(アニメーション)を担当。
 
[[1945年]](昭和20年)、日本敗戦後、[[東宝]]資本下で創設された「[[日本動画株式会社]]」に入社。[[木下としお]]、[[大工原章]]、大工原の夫人、福井の妻らと線画スタッフとなる{{要出典|date=2014年5月}}<!---他の文献では日本動画社の設立は1947年[http://www.kumakawa-masao.com/history9.html]とされており、福井が加入したのは後述の日本漫画映画社倒産後--->
 
[[1949年]](昭和24年)、[[日本漫画映画社]]で[[瀬尾光世]]のもと、33分の長編動画映画『[[王様のしっぽ]]』の制作に関わる。製作費600万円(当時)を投入した大作だったが、配給元の[[東宝]]の[[渡辺銕蔵]]社長から「内容が赤がかっている」との一声でお蔵入りし評されしまい公開されず、日本漫画映画社は倒産。瀬尾は失意のうち出版界へ転身、チーフアニメーターだった福井も[[小幡俊治]]、[[古沢日出夫]]らとともに児童漫画家に転向する<ref>『漫画の歴史』([[清水勲]]著、[[岩波書店]](岩波新書、1991年、索引 p.16。 ISBN 4004301726)、『手塚治虫とボク』(うしおそうじ著、草思社)</ref>。
 
この年、急死した[[井上一雄]]の『バット君』(『[[漫画少年]]』)の終了が惜しまれ、読者からの応募原稿から作品を継続する企画が立てられた。その書き直し役として同『漫画少年』誌で『ドンマイくん』を連載開始、漫画家デビューを果たす<ref>[[河合隼雄]]他 『昭和マンガのヒーローたち』 [[講談社]]、1987年、ISBN 4-06-202014-9 、119頁。</ref>。
 
[[1951年]](昭和26年)、『[[冒険王]]』([[秋田書店]])の鈴木ひろし副編集長から「[[佐藤紅]]の少年小説の立身出世物語をそのまま漫画にしたような、たとえば[[黒澤明]]の『[[姿三四郎 (映画)|姿三四郎]]』の漫画版を描いてほしい」との依頼を受ける。
 
[[1952年]](昭和27年)、鈴木副編集長と担当編集者の平田昌兵とともに、福井は企画案を練り上げ、『冒険王』1月号から[[柔道]]漫画『[[イガグリくん]]』を連載開始。同作は爆発的な人気を博し、『冒険王』は瞬く間に発行部数30万部を突破、返本率5%という怪物誌となった。
 
[[1953年]](昭和28年)、『イガグリくん』の大人気を見て、各漫画誌は次々と追随、柔道漫画のブームが巻き起こる。この時期、[[手塚治虫]]との対抗心が激化。翌年「イガグリくん事件」が起こる。
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[[1954年]](昭和29年)、『銀の鈴』(銀の鈴社)に連載していた『よわむし鈴之助』を基に、『少年画報』([[少年画報社]])に『[[赤胴鈴之助]]』を連載開始。
 
[[6月26日]]、前夜カンヅメ仕事を終えた後、編集者と朝まで飲み明かし、一度帰宅してから再びカンヅメ仕事に入った。このときはげしい頭痛に見舞われ、医者を呼ぶこととなった。「過労と、朝まで酒を飲んだせいでしょう」との診断を受け、医師が帰ったその直後に容体が急変し死去。[[過労死|過労による]][[狭心症]]だった。享年34(満33歳没)
 
こうして『赤胴鈴之助』は第1回目を描いたところで[[絶筆]]となったが、「そのまま打ち切りにしてしまうのはあまりにも勿体ない」という少年画報社編集部の判断で、新人漫画家・[[武内つなよし]]に連載が引き継がれた。
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「東京児童漫画会」(児漫長屋)会員であり、[[高野よしてる]]や[[山根一二三]]は年上の福井を「兄貴」と呼ぶ親しい間柄で、「児漫長屋の3人組」と言われた。月刊誌は月末の1週間が「漫閑期」と言われ、この時期に3人で「充電」と称し、盛大に遊び歩いたという。
 
[[漫画]][[評論]]家の[[夏目房之介]]は、福井の[[勧善懲悪]]タイプの[[スポーツ漫画]]が手塚治虫作品とは違う独自の世界を築いていた点を指摘しており、福井の作劇手法の影響下にある後年の漫画家の多さを示唆している([[水島新司]]など)。さらに福井の作品世界と、後の[[梶原一騎]]作品の共通点にも言及。手塚が神格化される一方で、福井が忘れ去られそうな現状に疑義を唱えている。
 
福井が過労死する少し前に顔を合わせた[[うしおそうじ]]は、その土気色の顔色に驚いたという。福井の死から10日ほどたって、[[馬場のぼる]]宅で「東京児童漫画会」の集会が開かれ、太田じろう、山根一二三、高野よしてる、木村一郎、古沢日出夫、手塚治虫、馬場のぼる、うしおそうじらが集まり、黙祷をささげた。この席で太田と木村は、福井の死は過剰労働によるもので、そもそも漫画の原稿料の安さによる過剰な執筆作業に問題があるとして、各出版社に対して原稿料の値上げ要求を提案した。当時の「別冊付録は」本誌連載原稿のページ数を超えることもあったほどで、その福井の死を招いた「別冊付録」の原稿料を一律12万円とするように出版各社と交渉を行った結果これを承諾させた。結果的に福井の死は、漫画家たちの過酷な労働条件の改善に生かされた<ref>『手塚治虫とボク』(うしおそうじ、草思社)</ref>。
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[[手塚治虫]]とはライバルであり、同時に対立関係にあったが、手塚が書いた作品は全て所有していた。手塚自身も自伝『ぼくはマンガ家』(1969年、毎日新聞社)で「福井氏の筆勢を嫉んでいた」と書いている。
 
当時[[少年画報社]]の編集者であった[[福元一義]]によると、福井は鉛筆で下絵を描いてから[[つけペン#種類|丸ペン]]で丁寧に仕上げる「昔気質の律儀な漫画家」である上に、徹夜ができなかった。一方の手塚は鉛筆で人物などを丸や三角の絵で当たりをとったあと、[[つけペン|事務ペン]]一本のみを使用して直にペンを入れ<ref>『手塚治虫とボク』(うしおそうじ、草思社)</ref>、一睡もせずに猛烈な速度で原稿を仕上げていく対照的なタイプであった。福井は一度手塚と同室で執筆した際、普段はやらない徹夜ができたことを喜んだものの、ペースを乱されたためか「もう君とは二度と一緒に仕事しない」と手塚に話したという<ref>岩上安身「仕事部屋から見つめた超人・手塚治虫」『[[エスクァイア]]日本版』No.136、1989年[http://www.hh.iij4u.or.jp/~iwakami/atom.htm]および福元一義『手塚先生、締め切り過ぎてます!』(集英社新書、2009年)P29 - 30。『手塚先生、締め切り過ぎてます!』によると、この同室での執筆は福井の提案で、福井の自宅で行われたという。</ref>。
 
福井の手塚に対するライバル心も並々ならぬもので、『イガグリくん』の人気ぶりは手塚の牙城を揺るがす勢いだった。「児漫長屋」の漫画家たちも、[[関西]]出身の手塚に対するやっかみが強かった。一度「児漫長屋」の仲間たちで、[[池袋]]で飲み会を開いていたところ、酔いのまわった福井が手塚に「やい、この大阪人、あんまり儲けるなよ!」とふっかけて口論となった。福井は手塚に「稼ぐばかりが能じゃねえ、ちっとは子供たちのことを考えろ、その態度がおれには腹が立ってならねえ、この贅六<ref>関西人を罵倒する軽蔑語。手塚をやっかみ、こう呼ぶ同業者は多かったという</ref>め!」と罵倒したという。
 
この福井の手塚に対するライバル心は、1954年(昭和29年(1954年)に手塚が『漫画少年』2月号で『[[ジャングル大帝]]』と同時連載していた『漫画教室』の133ページの一コマをきっかけに、「イガグリくん事件」として、決定的な衝突を生むこととなった。手塚は持論として「ストーリー漫画家はページ数を稼ぐために無駄なコマや不必要な絵を描く」と批判し、福井の勢いに対する幾分の妬み心から、「悪い例」として「イガグリくん」の絵を描いたのである。これを見た福井は「手塚は俺の『イガグリくん』を悪書漫画の代表として天下にさらしこきおろした」と激怒。親友であり手塚とも縁の深かった[[馬場のぼる]]の家に押しかけて、彼を立会人に指名し、馬場とともに少年画報社の編集室に乗り込んで、打ち合わせ中の手塚の胸倉をつかんで、激しく謝罪を要求した。
 
馬場のとりなしで抗議の場を行きつけの居酒屋に変えても福井の怒りは収まらず、手塚に「俺の漫画のどこが無意味でどこがページ稼ぎなのか言ってみろ!」と迫った。対する手塚はしどろもどろで、「あれはイガグリというより架空の絵なんだ」との答えがさらに福井の怒りを買い、「ストーリー漫画にはムードが必要なんだ、たとえ雲ひとつでもストーリーが引き立つなら決して無駄じゃねえんだ、そんなこたあ俺よりてめえのほうが合点承知の助だろうが!」と正論で迫った。ここに至って手塚はついに叩頭して謝罪し、ようやく福井の怒りを解いたが、以後手塚は強烈な自己嫌悪に陥ったという。両者のライバル心がいかにすさまじかったかを示すエピソードである<ref>『手塚治虫とボク』(うしおそうじ著、草思社)</ref>。
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手塚は直後アシスタントしてもらっていた高校生時代の[[石ノ森章太郎]]にハガキを出している。
{{Squote|''福井英一氏が亡くなられた。今、葬儀の帰途だ。狭心症だった。徹夜をしたんだ。終わって飲みに出て倒れた。出版社が殺したようなものだ。悲しい、どうにもやりきれない気持ちだ。おちついたら、また、のちほどくわしく知らせるから・・・」…''}}
その手紙を受け取った石ノ森は手塚の悲しみが行間からにじみ出てるようだったと語っている<ref>石ノ森章太郎のマンガ家入門 秋田文庫</ref>。