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== 来歴 ==
[[1921年]](大正10年)[[3月3日]]、東京の下町に生まれる。旧制[[郁文館中学校・高等学校|郁文館中学校]]([[開成中学校・高等学校|開成中学校]]卒業との記述もあり<ref>『手塚治虫とボク』(うしおそうじ著、草思社)</ref>)卒業後、
[[1945年]](昭和20年)、日本敗戦後、[[東宝]]資本下で創設された
[[1949年]](昭和24年)、
この年、急死した[[井上一雄]]の『バット君』(『[[漫画少年]]』)の終了が惜しまれ、読者からの応募原稿から作品を継続する企画が立てられ
[[1951年]](昭和26年)、『[[冒険王]]』([[秋田書店]])の鈴木ひろし副編集長から「[[佐藤紅
[[1952年]](昭和27年)、鈴木副編集長と担当編集者の平田昌兵とともに、福井は企画案を練り上げ、『冒険王』1月号から[[柔道]]漫画『[[イガグリくん]]』を連載開始。同作は爆発的な人気を博し、『冒険王』は瞬く間に発行部数30万部を突破、返本率5%という怪物誌となった。
[[1953年]](昭和28年)、『イガグリくん』の大人気を見て、各漫画誌は次々と追随、柔道漫画のブームが巻き起こる。この時期、[[手塚治虫]]との対抗心が激化。翌年「イガグリくん事件」が起こる。
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[[1954年]](昭和29年)、『銀の鈴』(銀の鈴社)に連載していた『よわむし鈴之助』を基に、『少年画報』([[少年画報社]])に『[[赤胴鈴之助]]』を連載開始。
[[6月26日]]、前夜カンヅメ仕事を終えた後、編集者と朝まで飲み明かし、一度帰宅してから再びカンヅメ仕事に入った。このときはげしい頭痛に見舞われ、医者を呼ぶこととなった。「過労と、朝まで酒を飲んだせいでしょう」との診断を受け、医師が帰ったその直後に容体が急変し死去。[[過労死|過労による]][[狭心症]]だった。享年34(満33歳没)。
こうして『赤胴鈴之助』は第1回目を描いたところで[[絶筆]]となったが、「そのまま打ち切りにしてしまうのはあまりにも勿体ない」という少年画報社編集部の判断で、新人漫画家・[[武内つなよし]]に連載が引き継がれた。
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「東京児童漫画会」(児漫長屋)会員であり、[[高野よしてる]]や[[山根一二三]]は年上の福井を「兄貴」と呼ぶ親しい間柄で、「児漫長屋の3人組」と言われた。月刊誌は月末の1週間が「漫閑期」と言われ、この時期に3人で「充電」と称し、盛大に遊び歩いたという。
[[漫画
福井が過労死する少し前に顔を合わせた[[うしおそうじ]]は、その土気色の顔色に驚いたという。福井の死から10日ほどたって、[[馬場のぼる]]宅で「東京児童漫画会」の集会が開かれ、太田じろう、山根一二三、高野よしてる、木村一郎、古沢日出夫、手塚治虫、馬場のぼる、うしおそうじらが集まり、黙祷をささげた。この席で太田と木村は、福井の死は過剰労働によるもので、そもそも漫画の原稿料の安さによる過剰な執筆作業に問題があるとして、各出版社に対して原稿料の値上げ要求を提案した。当時の「別冊付録は」本誌連載原稿のページ数を超えることもあったほどで、その福井の死を招いた「別冊付録」の原稿料を一律12万円とするように出版各社と交渉を行った結果これを承諾させた。結果的に福井の死は、漫画家たちの過酷な労働条件の改善に生かされた<ref>『手塚治虫とボク』(うしおそうじ、草思社)</ref>。
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[[手塚治虫]]とはライバルであり、同時に対立関係にあったが、手塚が書いた作品は全て所有していた。手塚自身も自伝『ぼくはマンガ家』(1969年、毎日新聞社)で「福井氏の筆勢を嫉んでいた」と書いている。
当時
福井の手塚に対するライバル心も並々ならぬもので、『イガグリくん』の人気ぶりは手塚の牙城を揺るがす勢いだった。「児漫長屋」の漫画家たちも、[[関西]]出身の手塚に対するやっかみが強かった。一度「児漫長屋」の仲間たちで、[[池袋]]で飲み会を開いていたところ、酔いのまわった福井が手塚に「やい、この大阪人、あんまり儲けるなよ!」とふっかけて口論となった。福井は手塚に「稼ぐばかりが能じゃねえ、ちっとは子供たちのことを考えろ、その態度がおれには腹が立ってならねえ、この贅六<ref>関西人を罵倒する軽蔑語。手塚をやっかみ、こう呼ぶ同業者は多かったという。</ref>め!」と罵倒したという。
この福井の手塚に対するライバル心は、1954年(昭和29
馬場のとりなしで抗議の場を行きつけの居酒屋に変えても福井の怒りは収まらず、手塚に「俺の漫画のどこが無意味でどこがページ稼ぎなのか言ってみろ!」と迫った。対する手塚はしどろもどろで、「あれはイガグリというより架空の絵なんだ」との答えがさらに福井の怒りを買い、「ストーリー漫画にはムードが必要なんだ、たとえ雲ひとつでもストーリーが引き立つなら決して無駄じゃねえんだ、そんなこたあ俺よりてめえのほうが合点承知の助だろうが!」と正論で迫った。ここに至って手塚はついに叩頭して謝罪し、ようやく福井の怒りを解いたが、以後手塚は強烈な自己嫌悪に陥ったという。両者のライバル心がいかにすさまじかったかを示すエピソードである<ref>『手塚治虫とボク』(うしおそうじ著、草思社)</ref>。
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手塚は直後アシスタントしてもらっていた高校生時代の[[石ノ森章太郎]]にハガキを出している。
その手紙を受け取った石ノ森は手塚の悲しみが行間からにじみ出てるようだったと語っている<ref>石ノ森章太郎のマンガ家入門 秋田文庫</ref>。
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