「櫛橋光」の版間の差分

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|配偶者 = [[黒田孝高]]
|非婚配偶者 =
|子供 = [[黒田長政]]</br>[[黒田熊之助]](早世)
|親 = [[櫛橋伊定]]
|親戚 =
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== 生涯 ==
[[1553年]]([[天文 (元号)|天文]]22年)、播磨国志方城主・[[櫛橋伊定]](伊則、則伊とも)の娘として誕生。兄に[[櫛橋政伊]]・[[櫛橋則政]]、姉に[[上月景貞]]室([[妙寿尼]])、妹に[[井上之房]]室がいる。
 
[[1567年]]([[永禄]]10年)、[[小寺氏]]の家臣・黒田孝高に正妻として嫁いだ。孝高は[[側室]]を持つことはなく、[[1568年]](永禄11年)に[[黒田長政]]、[[1582年]]([[天正]]10年)に[[黒田熊之助]]を産んだ。
 
[[織田信長]]の才能を高く評価していた夫・孝高は、主君の小寺政職に臣従を進言し、[[毛利氏]]攻めなどの先鋒を務める。ところが、[[1578年]]([[天正]]6年)3月、播磨国の[[別所長治]]が殆どの周辺豪族を引き込んで信長に反旗を翻すと、志方城の兄・櫛橋もこれに呼応して敵対した。しかし同年7月、志方城は[[織田信雄]]の兵に包囲され、出撃を数度繰り返すも被害は大きく、[[別所氏]]の[[神吉城]]が落とされると、同年8月10日に生家の櫛橋氏は降伏した。この降伏の際に志方城主は人質を出して兵士たちの助命を条件に自害したとされるが、父・伊定とも兄・ともいわれており、また、他にも諸説あるため詳細は不明。なお、兄の子は許されて、後に[[黒田氏]]に仕えた。
 
その後、夫・孝高は[[豊臣秀吉]]の腹心として活躍し、[[豊前国]]中津12万石の[[大名]]になると、光は他の大名家の妻子と同様に大坂に置かれた。[[1600年]](慶長5年)の[[関ヶ原の戦い]]が起こると、[[石田三成]]が大坂に残っている大名の妻子を人質にしようとしたが、[[細川ガラシャ]]が拒否して玉造の屋敷に火を放った際に伴い監視が緩むと、孝高の家臣たち([[栗山利安]]、[[母里友信]]、[[宮崎重昌]])によって、光や長政室・[[栄姫]]は長柄の屋敷から救出され、孝高の居城の[[豊前国]][[中津城]]まで船で脱出した。
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[[1627年]]([[寛永]]4年)、[[筑前国]]福岡において死去(卒年75)。戒名は照福院殿然誉浩栄大尼公。墓は、圓應寺(福岡)、報土寺(京都)、崇福寺(福岡)にある。
 
== 子孫 ==
櫛橋光の子は、夫・孝高との間に生まれた[[黒田長政]](長男、[[1568年]](永禄11年)生誕)と[[黒田熊之助]](次男、[[1582年]]([[天正]]10年)生誕)のみであった。長政の誕生後、しばらく子が生まれなかったが、夫・孝高はその後も側室を持つことはなかった。よって、[[有岡城の戦い]]に際し、長政(幼名:松寿丸)が竹中重治に匿われることなく処刑されていれば、ここで跡取りを失くしていたことになるが、重治に助けられたことによりそれは回避された。
 
それよりまもなくして、二番目の子となる黒田熊之助(くまのすけ)が誕生した。熊之助も順調に成長したが、[[慶長]]2年([[1597年]])、[[朝鮮出兵]]に参加していた父・孝高や兄・長政を見舞うために、母里吉太夫([[母里友信]]の嫡男)・黒田吉松([[黒田一成]]の弟)・木山紹琢を従え[[朝鮮半島]]を目指していた途中で暴風に遭って船が沈没し亡くなった(享年16)。
 
よって、長政の子孫のみが光の子孫ということになる(詳しくは[[黒田長政#子孫]]を参照のこと)。
 
== 備考 ==
* 光姫の読み方は「テル姫」が通説であったが、[[2013年]]([[平成]]25年)8月、自身が建立した菩提寺である圓應寺(福岡)の蔵書から('''ミツ''')とルビの記された古文書が発見され、同月26日発表された<ref>{{Cite web |last= |first= |author=三木英信|authorlink= |coauthors= |date= |url= http://www.ennouji.or.jp/mitu.html|title= 光(みつ)姫? 光(てる)姫?|format= |doi= |work= |publisher=圓應寺 |page= |pages= |language= |archiveurl= |archivedate= |accessdate=2003-11-22 |quote= |ref=}} </ref>。但し、翌2014年の大河ドラマ『軍師官兵衛』(演 - 中谷美紀)では「'''てる'''」と読ませている
* 孝高が[[太宰府天満宮]]に収めた『如水夢想連歌集』の中で、「長閑(のどか)に 風のかよふ 江のみず」と返歌を読んだ幸圓が、光の雅号だと考えられている(「幸園」とする書籍があるが、誤記である)。