「ウィレム・ヴァン・オッテルロー」の版間の差分

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== 略歴 ==
[[オランダ]]の[[:nl:Winterswijk (plaats)|ヴィンテルスヴァイク]]に生まれる。[[ユトレヒト大学]]で医学を学ぶが、その後[[:nl:Conservatorium van Amsterdam|アムステルダム音楽院]]に進む。はじめはチェリストであったが、[[1932年]]に指揮者としてデビュー。[[1937年]]にユトレヒト市立管弦楽団([[ユトレヒト交響楽団]])の常任指揮者に就任する。[[1949年]]から[[1973年]]の長きにわたり[[ハーグ・レジデンティ管弦楽団]]の首席指揮者、音楽監督としてその育成に貢献した。また[[1967年]]から[[1970年]]まで[[メルボルン交響楽団]]、[[1971年]]から[[1978年]]の死去に至るまで[[シドニー交響楽団]]の首席指揮者をつとめている。滞在中の[[メルボルン]]近郊で交通事故により急死。[[フィリップス・レコード|フィリップス]]や[[コンサート・ホール・ソサエティ]]等に多くの音源を残し、特に[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団|ベルリン・フィル]]と協演した[[幻想交響曲]]や、[[ニキタ・マガロフ]]と協演した[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]の[[ピアノ協奏曲第2番 (ブラームス)|ピアノ協奏曲第2番]]は評価が高い。最晩年にはシドニー交響楽団とベートーヴェンの交響曲全集のレコーディングに取り組んでいたが、[[交響曲第1番 (ベートーヴェン)|第1番]]、「[[交響曲第3番 (ベートーヴェン)|英雄]]」、[[交響曲第4番 (ベートーヴェン)|第4番]]、「[[交響曲第5番 (ベートーヴェン)|運命]]」、「[[交響曲第6番 (ベートーヴェン)|田園]]」の5曲までを録音した時点でオッテルローは死去し、プロジェクトは半ばで頓挫している。
 
== 作品 ==