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{{Otheruses|久保田藩主佐竹義明の次男|家老の家である佐竹西家の当主|佐竹義方 (西家)}}
'''佐竹 義方'''(さたけ よしかた、[[宝暦]]4年([[1754年]]) - [[文化 (元号)|文化]]6年[[2月10日 (旧暦)|2月10日]]([[1809年]][[3月25日]]))は、[[出羽国]][[久保田藩]]の第7代藩主[[佐竹義明]]の次男。8代藩主[[佐竹義敦]]の弟。幼名は幸之助、通称は左近。芳洲と号する。子女は、長女八重([[谷衛量]]室、のちに離縁)、[[佐竹義冨]](家臣佐竹東家養子)、[[佐竹義路]](幕臣今大路家養子、のちに離縁)、[[那須資礼]](幕臣那須家養子)。
 
明和6年(1769年)2月21日、[[元服]]する。天明2年(1782年)8月29日、1年間の生活費が約3435両(石高で1万石に相当)に及んでおり、翌年から5千石に切り詰めるように命じられる。同年11月21日、翌年から6千石の支給に改められる。天明5年、兄義敦の死去により、藩主となった甥義和の補佐にあたる。文人であり、漢詩をよくした。正存中は藩主舎弟として[[武鑑]]にも登場していた。
 
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