「三別抄」の版間の差分

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モンゴルの支援を受けた元宗は[[江華島]]から[[開城]]へ戻り、武臣政権の私兵集団として国内騒擾の元凶ともなってきた三別抄に対しては解散を命じた。これに対して、三別抄の裴仲孫(ペ・チュンソン)、夜別抄の盧永禧らは宗室の承化公・[[王温]]([[:zh:王溫 (承化侯)|中国版]])を推戴し、江華島を本拠に自立した。
 
6月、三別抄政権は西南の[[珍島]]に移り、城を作るなど、抗戦の準備を進めるとともに、[[全羅南道]]や[[慶尚南道]]に勢力を拡大していった。[[1271年]]には日本の[[鎌倉幕府]]へ救援を求めたが、これに対して日本側がどのうように対応したかは史料に残っていない。一方、同年3月、モンゴル帝国の中央機関・[[中書省]]にいた官吏の話によると、三別抄はモンゴルから降伏を求められた際に、「駐屯する(蒙古)諸軍を撤収させて欲しい。そうすれば帰順する」と言ったが、[[忻都]](モンゴル将軍)がその要請を聞かないと、今度は「我らが[[全羅道]]を得て、そこに居住できるのであれば、直接朝廷に隷属する」と返事を送ったという<ref>『元史』中書省臣言:「高麗叛臣裴仲孫乞諸軍退屯、然后内附、而忻都未從其請、今願得全羅道以居、直隸朝廷。」</ref>。
 
だが結局、モンゴルとの交渉は失敗に終わり、三別抄は徹底抗戦の態勢を固めた<ref>『元史』叛臣裴仲孫、稽留使命、負固不服</ref>。1271年4月、皇帝[[クビライ]]は三別抄の討伐を命じ、珍島の三別抄はモンゴル・高麗の連合軍に撃破され、残党が[[金通精]](キム・トンジョン)に率いられて耽羅([[済州島]])に落ち延びて命脈を保つが、[[1273年]]には耽羅島も攻め落とされて三別抄の乱は完全に鎮圧、三別抄の歴史も閉じることになる。三別抄の壊滅と同時にモンゴルは[[耽羅総管府]]を設置した。