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同年9月15日、[[備中国|備中]][[庭瀬藩]]から[[松平信通]]が3万石で入り、ようやく藩主家が安定する。しかし小藩にありがちの財政難が[[延享]]年間から発生し、百姓一揆も頻発した。延享4年([[1747年]])には[[五巴徒党一揆]]、[[明和]]8年([[1771年]])には逃散一揆、[[天保]]5年([[1834年]])には徳政一揆が起こって、合計8名が処刑されている。[[文化 (元号)|文化]]6年([[1809年]])には[[藩校]]・天輔館(後に明新館)が設立された。
 
幕末になると幕府に重用され、大坂警備や江戸市中警備に出兵した。慶応2年には洋式兵学を取り入れた。慶応3年12月、江戸市中で浪人による放火が相次ぎ、その主犯が[[薩摩藩]]であることを突き止め、時の藩主[[松平信庸 (上山藩主)|松平信庸]]は自ら兵を率いて薩摩藩邸を攻撃した。これに出羽[[庄内藩]]、武蔵[[岩槻藩]]、越前[[鯖江藩]]が同行した([[江戸薩摩藩邸焼討事件]])。
 
慶応4年([[1868年]])、[[戊辰戦争]]が始まる[[奥羽越列藩同盟]]に参加、同盟方針に従って総督・山村求馬率いる洋式軍隊を出羽[[久保田藩]]に派兵する。山村求馬は出羽[[新庄藩]]の裏切りにより戦死、その後は庄内藩と行動を共にして久保田城を包囲した。また、飛び地であった七日市が長岡の近所であったため[[北越戦争]]に巻き込まれ、別働隊を長岡に派遣した。米沢藩が新政府に恭順すると、背後からの攻撃を恐れて軍を引き上げ降伏恭順し、版籍奉還を迎えた。
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