「御真影」の版間の差分

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[[宮内省]]から各学校に貸与され、[[奉安殿]]に[[教育ニ関スル勅語|教育勅語]]と一緒に保管された。四大節(元旦・[[紀元節]]・[[天皇誕生日|天長節]]・明治節)には講堂の正面に飾り、児童(生徒)・職員一同が遙拝した。下付は強制ではなく、各学校からの請願の上、その学校が「優等」とされた場合に下付されることとなっていた。
 
宮内省から「貸与」されている物だけに、非常に慎重な取り扱いが要求され、[[1898年]](明治31年)に長野県の町立上田尋常高等小学校(現在の[[上田市立清明小学校]])で、火事により[[明治天皇]]の御真影が焼けてしまった際には、当時の校長・久米由太郎(小説家[[久米正雄]]の父)が自らの腹責任って割腹自殺するという事件が起きたこともあった。また、[[1933年]](昭和8年)、沖縄県南城市の第一大里小学校(現在の大里北小学校)で火事が起こって御真影が焼けてしまった際にも同様に、当時の校長が割腹自殺をした。<ref>「御真影」に殉じた教師たち 岩本努・著 1989年4月 大月書店より出版</ref>安全のため、学校ではなく町村役場で保管した例もあった。また“直視すると罰が当たって目が潰れる”という理由で、生徒が見ることを禁じる場合もあった。
 
御真影にこうした役割を担わせたのは、初代文部大臣[[森有礼]]・初代文部大臣によるところが大きいとされる。
 
== 歴史 ==