「剱持松二」の版間の差分

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1961年度は[[東西対抗勝継戦]]で優勝し、また、1962年・1963年には[[順位戦]]連続昇級し、現役プロとしてのピークを迎えた。七段から八段へ昇段するのに19年間を要したが、その昇段祝賀会には150人もの参加者が詰めかけた。
 
その人柄から、[[大山康晴]]からも[[升田幸三]]からもかわいがられた。また、[[日本将棋連盟|連盟]]の裏方として、スポンサー集め、募金集めに東奔西走した。特に[[三菱電機]]との関係が深かったとのことで、[[将棋会館]]建設時や[[早指し将棋選手権]]の開始時などは同社から多額の寄付金を引き出しているという<ref name=penclub130507>[http://silvashogipenclublog.blogzine.jpcom/blog/2013/05/post_4064.html07/剱持松二四段(当時)と力道山アマ三段/ 剱持松二四段(当時)と力道山アマ三段] - 将棋ペンクラブログ・2013年5月7日</ref>。また[[プロレス]]好きの剱持は、三菱電機が当時[[日本プロレス中継]]のスポンサーだったため、同社を通じて[[力道山]]との親交があり、力道山が将棋好きということもあって、アマチュア三段の免状を贈呈したこともある<ref name=penclub100513>[http://silvashogipenclublog.blogzine.jpcom/blog/2010/05/post_fef1.html13/剱持が勝つと言えば絶対勝つ。(1)/ 剱持が勝つと言えば絶対勝つ。(1)] - 将棋ペンクラブログ・2010年5月13日</ref>。
 
[[加藤一二三]]の後年の師匠として知られている。年上だがプロ入りが加藤より遅い<ref>プロ入りは加藤が1954年、剱持が1956年である。</ref>のに師匠という不思議な関係である。これは剱持の師匠の荒巻が[[キリスト教]]の信仰に理解があり、加藤が師匠を変更する時には既に故人であったため、荒巻の弟子の剱持を師匠にしたということらしい。なお後に剱持自身、加藤とは「升田(幸三)先生が仲人を務めた」という共通点が有り、過去に何度も升田邸で顔を合わせていて「気持ちは通じていた」との裏話を明かした上で、「誰も引き受けたがらないという話になると、棋界広しとはいえ、私しかいないでしょう」と語っている<ref>[http://silvashogipenclublog.blogzine.jpcom/blog/2010/05/post_e179.html15/剱持が勝つと言えば絶対勝つ。(最終回)/ 剱持が勝つと言えば絶対勝つ。(最終回)] - 将棋ペンクラブログ・2010年5月15日</ref>。
 
順位戦において、[[降級点]]取得回数11回(B級2組で5回、C級1組で4回、C級2組で2回)・抹消5回(B級2組で3回、C級1組で2回)の珍記録を有している。