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'''蔵前国技館'''(くらまえこくぎかん、正字体:藏前國技館)とは、[[両国国技館]](2代目)が造られるまで、[[東京都|東京]]での[[大相撲]]の[[本場所]]を開催していた場所である。外観は純和風で独特の雰囲気のあるものであった。
==概要==
[[1941年]]([[昭和]]16年)に購入していた[[日本相撲協会]]の土地に戦後、[[大日本帝国海軍|海軍]][[戦闘機]]組立工場の鉄骨の払い下げを受けて仮設される。収容人員は約11,000人。2階建てで、1階は溜まり席と[[枡席]]、2階は椅子席と貴賓席が設けられていた。[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]により両国国技館が[[接収]]され、相撲興行が出来なくなった相撲協会は、[[明治神宮外苑]]の野天相撲や[[日本橋浜町|浜町]]の仮設国技館<!--(当時は'''假設國技館'''と書いた)-->などで興行を続けていたが、本格的な興行場所を求めて蔵前に[[1949年]](昭和24年)10月23日の[[地鎮祭]]より建設を開始、翌年「仮設」のまま蔵前国技館として開館した。
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以上のように相撲史に残る数多くの出来事があり、「[[栃錦清隆|栃]][[若乃花幹士 (初代)|若]]時代」「[[柏戸剛|柏]][[大鵬幸喜|鵬]]時代」「[[輪島大士|輪]][[北の湖敏満|湖]]時代」の各黄金時代の舞台となるなど、蔵前国技館が使用されていた時代は、戦後の大相撲で最も活気ある時代でもあったといえる{{要出典|date=2011年7月}}。
この時代の興行収入や[[プロレス]]・[[ボクシング]]などの使用料収入が両国「新」国技館の建設費用に貢献したと言われている。プロレスでは、プロレスブームの出発点となった[[力道山]]・[[木村政彦]]
なお、当時は現在の両国国技館のように[[エレベーター]]上下式の[[土俵]]ではなかったため、プロレスやボクシングなどの興行を行うときには、土俵の真上にリングを設置していた。そのため、プロレス興行に登場する[[ヒール (プロレス)|悪役レスラー]]が、リングの下から土俵の土、及び砂を握って、反則攻撃に使うことがお馴染みとなっていた。また、あくまで女人禁制の土俵上であるために花束嬢はリング内(ロープをまたいで)には上がれず、リングに上がっても[[エプロン]]まででとどまっていた。
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1966年5月18日付の『報知新聞』には「蔵前国技館の跡地に収容人数2万2000人の新国技館を建設する」という趣旨の記事が掲載されていたが、この年あたりから相撲人気の陰りが見えて民放テレビ各局が相撲中継から撤退した影響で、結局この「大国技館構想」は実現に移されなかった。<ref>『大相撲ジャーナル』2014年2月号98頁から99頁</ref>
[[1975年]][[10月19日]]、『[[キャンディーズ]]10000人カーニバル』、[[1976年]][[10月11日]]、『キャンディーズ10000人カーニバル Vol.2』のコンサートがそれぞれ開催され、『10000人カーニバルVol.2』では、13500人が入場している。
[[1984年]](昭和59年)9月場所[[千秋楽]]を最後に閉館。翌年1月場所からは現在の両国国技館へ興行場所が移った。蔵前国技館跡地は東京都に売却し、その売却益が両国国技館建設の資金となった。跡地は現在、[[東京都下水道局]]の処理場と「[[蔵前水の館]]」になっている。
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* 蔵前仮設国技館最初の場所(1950年1月場所)で[[幕内]]最高優勝をしたのは千代の山雅信(大関、当時は「千代ノ山」)、最後の場所(1984年9月場所)では[[前頭|平幕]]の[[多賀竜昇司]](最高位は関脇)だった。多賀竜は蔵前国技館での優勝経験者として最後に現役に残った力士でもあった。
* 蔵前での優勝の最多は[[大鵬幸喜]]と[[北の湖敏満]]でともに16回。また、ともに蔵前場所連続優勝の記録でも最多(5場所連続)である。北の湖は最初の6回の優勝は全て蔵前での本場所で達成(しかも1月場所と5月場所のみ)している。
* 旧両国国技館と蔵前国技館の両方で優勝したのは、[[羽黒山政司]]だけ(旧両国で3回、蔵前で1回。蔵前での唯一の優勝は37歳2
* 蔵前国技館と新両国国技館で優勝した力士は[[千代の富士貢]]だけ(蔵前で2回、新両国で11回。千代の富士は横綱昇進後に蔵前での本場所を10回経験しているが優勝は2回だけである。)。国技館移転をまたいで優勝した者には、他に[[北天佑勝彦]]がいるが、2度目の優勝は地方場所([[名古屋市|名古屋]])でだった。
* 蔵前で幕内を務め、現役で最後に残ったのは[[水戸泉政人]]。[[2011年の相撲|2011年]]([[平成]]23年)5月[[技量審査場所]]で[[序二段]](元[[十両]])の[[栃天晃正嵩]]が引退し、蔵前国技館を経験した力士は全て[[引退]]した。
* 蔵前の土俵に上がった最古参の幕内経験者は元[[大関]]の[[名寄岩静男]]で仮設開館当時35歳3
== エピソード ==
* 蔵前国技館では1階観客通路に面して[[支度部屋]]が設けられていた。従って観客は支度部屋の様子を窓越しに見ることができ、支度部屋と土俵を行き来する力士たちを通路で直に見ることもできた。現在の両国国技館では保安などの関係から観客通路は支度部屋から分離されている。
* [[1966年]]に公開された[[アメリカ合衆国|アメリカ]][[映画]]『[[007は二度死ぬ]]』では、主要なロケ地のひとつとして使用された。
* 1971年の改修前は館内にすきま風が吹き、寒さに震えながら観客が相撲を観戦するような状態だった。大相撲担当記者からそのことを問われた当時の[[双葉山定次|時津風]]理事長が「そこは土俵の熱戦で暖まっていただいて……」と苦しい答弁をする程だったが、時津風の没後3年して改修が完了した。
* 両国国技館は地下に[[焼き鳥]]の仕込や調理を一括しておこなう「焼き鳥工場」があることが有名だが、この焼き鳥事業は[[相撲茶屋|国技館サービス株式会社]]の前身・相撲サービス株式会社が蔵前国技館時代から行なっていた事業。当時は地上にあった調理場で一つひとつ炭火焼きにしていた。そのため午前中は国技館から鶏肉を焼く煙と香匂が広がり、これも蔵前界隈の風情を代表する光景のひとつだった。
* 大相撲や格闘技以外のイベントでは、[[日本将棋連盟]]が行う
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
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{{相撲}}
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