「勝山合戦」の版間の差分

編集の要約なし
(新規作成)
 
編集の要約なし
同時期、[[伊豆国|伊豆]]の[[堀越公方]]家では[[足利政知]]が死去し、子の[[足利茶々丸|茶々丸]]の相続により[[北条早雲]]が伊豆に侵攻し、敗れた茶々丸は伊豆から甲斐へと落ち延びていた<ref name="柴辻p48"/>。このため[[今川氏親]]・早雲による甲斐侵攻が行なわれている<ref name="柴辻p48"/><ref name="柴辻p47"> 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』新人物往来社、2007年、p.47</ref>。このような事態のため、明応7年([[1498年]])に起こった大地震を契機として信縄と信昌・信恵との間で和睦が成立した<ref name="柴辻p48"/>。この和睦により、信昌は信縄の家督相続を事実上承認し、以後武田宗家は隠居の信昌・当主の信縄による共同統治により運営が行なわれている<ref name="柴辻p48"/><ref name="柴辻p55"> 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』新人物往来社、2007年、p.55</ref>。
 
[[永正]]2年([[1505年]])9月16日に信昌が死去<ref name="柴辻p50"> 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』新人物往来社、2007年、p.50</ref><ref name="柴辻p51"> 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』新人物往来社、2007年、p.51</ref>。2年後の2月14日には信縄が死去し、宗家の家督は信縄の嫡子で僅か14歳の信虎が相続する<ref name="柴辻p50"/><ref name="柴辻p51"/>。このような事態を見てか、信恵は弟の[[岩手縄美]]や[[栗原昌種]]、[[河村重家]]、[[小山田弥太郎]](信恵の従兄弟)、[[工藤氏]][[上条彦七郎]]、[[加藤氏]]らと結んで挙兵し、明応期に結ばれた和約は破綻した<ref name="柴辻p50"/>。
 
== 勝山合戦とその後 ==
981

回編集