「織田信雄」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
ShellSquid (会話 | 投稿記録)
→‎人物:  主観、独自研究の除去
To4roh (会話 | 投稿記録)
55行目:
天正18年([[1590年]])の[[小田原征伐]]にも従軍し、[[伊豆国|伊豆]][[韮山城]]攻めで武功を挙げる。しかし、戦後の論功行賞で東海地方の家康旧領への移封命令を拒否した結果、秀吉の怒りを買って[[改易]]される。改易後は[[下野国]][[那須烏山市|烏山]](一説に那須とも)に[[流罪]]となり、出家して'''常真'''と号した。
 
その後、[[出羽国]]秋田、[[伊予国]]へと流され、[[文禄]]元年([[1592年]])の[[文禄・慶長の役|文禄の役]]の際に家康の仲介で赦免され、[[御伽衆]]に加えられて大和国内に1万8,000石を領した。肥前名護屋城にも兵1,500を率いて着陣したという(『太閤記』)。この際、嫡男・[[織田秀雄|秀雄]]も越前国亀山大野に5万石を与えられた<ref>この時、実際に知行を与えられたのは秀雄の4万5,000石([[当代記]])で、信雄は後見役(隠居身分)として復帰したに過ぎず、本人が知行を直接与えられたのは[[御伽衆]]として秀吉に召抱えられた晩年で、1万7000石ともいう(武家事紀)。</ref>。
 
[[関ヶ原の戦い]]では、大坂にあって傍観的態度に終始している。一説には[[石田三成]]を支持したとも、畿内における西軍の情勢を密かに家康へ報じていたとも伝えられる。しかし、傍観的態度を西軍に与したと判断されたためか、秀雄ともども改易されている。