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== 人物 ==
[[北海道室蘭東高等学校]]入学し、生徒会長を務めた。同級生には[[久田恵]]がおり、共に[[富士製鐵]](現・[[新日鐵住金]])[[室蘭製鐵所|新日鐵住金室蘭製鐵所]]の社員の子供として、[[企業城下町]]の階級社会の中で育つ<ref>『でもわたしには戦が待っている』 風塵社、2004年、p33~44</ref>久田はホワイトカラーの裕福な社宅街の子供だったが、斎藤はブルーカラーの長屋街で育った<ref>『でもわたしには戦が待っている』 風塵社、2004年、p48</ref>。高校時代に[[アナキズム|アナーキズム]]理論に出会い、[[松田政男]]、[[山口健二]]、[[川仁宏]]、[[笹本雅敬]]らの東京行動戦線に賛同、シンパとなった。夏休みには上京し東京行動戦線の母体である[[現代思潮社]]でアルバイトするほどの熱心さだった<ref>『でもわたしには戦が待っている』p498</ref>。東京行動戦線の高校卒業後は[[東京都立大学]][[人文学部]]に進学し、東京行動戦線から派生した笹本、[[朝倉喬司]]らのベトナム反戦直接行動委員会にも参加、[[1966年]][[10月19日]]に東京都[[田無市]](現・西東京市)の日特金属工業(現・[[住友重機械工業]])を襲ったメンバーの一人だったが、逮捕はされなかった<ref>[http://kiyoumohannich.web.fc2.com/sien/no211/simazaki1.html 島崎忠さんに聞く 不思議な魅力を持っていた和君の思い出]</ref><ref>[http://www.jca.apc.org/~yyoffice/hibouryoku2.htm 非暴力と非合法――5・15嘉手納基地行動と関連して――その2 日特金属襲撃事件など)]『市民の意見30の会・東京ニュース』第50号 1998. 10. 1.</ref>。
 
[[1971年]]、斎藤は大学を中退し、[[青砥]]に貸本屋を開く<ref>『でもわたしには戦が待っている』p499</ref>。一方、学生時代の活動で築いた人脈の中で、[[北川フラム]]らとともに、[[平岡正明]]らの[[ラボ・パーティ|テック争議]]に参加<ref>『でもわたしには戦が待っている』p80 平岡の人脈もあり、山下洋輔や大島渚、足立正生、C.W.ニコルら多くの文化人も支援に訪れ、話題となっていた</ref>。そこで渋谷近くに住む大学生だった[[浴田由紀子]]と知り合う<ref>『でもわたしには戦が待っている』p113~114</ref>。平岡とは他方で彼の著書『中国人は日本で何をされたか』の室蘭の項の調査を担当した<ref>『でもわたしには戦が待っている』p82</ref>。
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同部隊のメンバーとして一連の事件に関わったとされる浴田由紀子は、自供を引き出すための作戦として、齋藤の自殺を翌日取調べ中に警察官から聞かされ、「夫殺し!」「同志殺し!」といった誹謗中傷を受けたと、と思いきや、「革命に殉じた」と言われたり<ref>『狼煙を見よ―東アジア反日武装戦線“狼”部隊』 松下 竜一著 ([[河出書房新社]]、1987年)</ref>、四十九日にはおはぎの差し入れを受けたという<ref>『でもわたしには戦が待っている』 風塵社</ref>。また弁護側は、齋藤が存命であれば主導的役割を負っていなかった浴田への[[無期懲役]]の[[求刑]]及び[[懲役]]20年の[[判決]]はありえないとした。
 
大学時代の友人で、捜査陣に共犯の疑いを持たれていたミュージシャンの[[竹田賢一]]は自身のユニットA-Musikの[[1984年]]のアルバム「エクイロジュ」の収録曲『反日ラップ』で東アジア反日武装戦線の[[三菱重工爆破事件]]の犯行声明をラップにしている。竹田談によれば、大学時代の斎藤は[[現代音楽]]の話が出来る数少ない友人だったという<ref>『でもわたしには戦が待っている』 風塵社、2004年、p65</ref>
 
== 参考文献 ==