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奈良期の日本においては、上記のとおり五位以上の貴族あるいは皇族は賜死を受けることが許され、<ref>『養老律令』獄令</ref>[[大津皇子]]や[[長屋王]]などが自害している。
 
一方で平安期に入ると、[[御霊信仰]]により高位の者を死罪にすること自体が忌まれたため、賜死は行われなくなった。<ref>平松義郎『江戸の罪と罰』(平凡社 2010)</ref>しかし、治承・寿永以後になると権力闘争は苛烈になり、政敵を滅ぼさなければ自分が滅ぼされるという状況において、御霊の祟りなど生ぬるい観念が語られることもなく、[[藤原信頼]](正三位)、[[信西]](正五位下)などの顕官が虫でも殺すように斬首された。鎌倉時代においても、[[葉室光親]](正二位)、[[日野資朝]](従三位)などが斬首されている。
 
武家社会において早くから行われていた「[[切腹]]」は、江戸期に入ると法制的に確立され、武家が死罪に抵たる罪を犯した場合は、通常の処刑によらず自ら切腹し賜死を受けることが許された。<ref>『御定書百箇条』</ref>大名級で賜死を受けることを許されず、斬首されることは非常な大罪を犯したことを意味した<REF>ただし[[有馬晴信]]のように、自ら願い出て斬罪になった例は存在し、この場合は切腹とほぼ同義とみてよい。</REF>。具体的には、[[島原の乱]]後に悪政を問われた[[松倉勝家]](切腹処分ともいわれている)、[[関ヶ原の戦い]]後の[[石田三成]]、[[小西行長]]、[[安国寺恵瓊]]の斬首の例がある。また、幕末の争乱期には武家であっても容赦なく斬首され、旗本では[[小栗忠順]](2500石)、藩臣では[[楢山佐渡]]、[[萱野長修]](いずれも家老)が草でも刈るように処刑されている。
 
士族の切腹の制度は明治初の「新律綱領」まで維持されたが、「改定律例」の適用により廃止された。