「西園寺公望」の版間の差分

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[[普仏戦争]]敗北と[[フランス第二帝政|第二帝政]]の崩壊、かわって樹立された革命政府[[パリ・コミューン]]とドイツ軍によるその鎮圧という、混乱の真っただ中の[[パリ]]に到着した西園寺は、以後10年近くにわたってフランスやヨーロッパの知識や思想、文化を吸収していった。その間、後に[[フランスの首相]]となる[[ジョルジュ・クレマンソー|クレマンソー]]や、留学生仲間の[[中江兆民]]・[[松田正久]]らと親交を結び、こうした人脈は帰国後も続いた。[[ソルボンヌ大学]]で勉学に勤しむ一方で随分と遊蕩もし、フランス人女性にもたいそう人気であったと伝えられる。また、金銭が尽きると二束三文のナマクラを[[正宗]]と偽って売りつけていた(いわゆる「西園寺正宗」)。なお、[[第一次世界大戦]]後の[[パリ講和会議]]([[1919年]])に日本の全権特使として出席した西園寺とパリ留学時代を同じ下宿で過ごした親友クレマンソーとの友情は、講和会議での日本の立場を保持するのに大いに役立ったと伝えられる。
 
'''パリ大学(通称[[ソルボンヌ大学]])は卒業していない。'''
 
パリ留学で自由思想を学んだ西園寺は[[自由民権運動]]に傾倒し、明治14年([[1881年]])[[3月18日]]には、[[自由党 (日本 1881-1884)|自由党]]結党に向けて創刊された『[[東洋自由新聞]]』の社長となり、中江兆民、松田正久らと共に発行に携わる。西園寺が自由民権運動に加担することは政府や宮中で物議を醸し、右大臣の岩倉具視が働きかけた明治天皇の内勅により退社を余儀なくされ、東洋自由新聞は[[4月30日]]発行の第34号にて廃刊に追い込まれた。この時の西園寺はあらゆる圧力に屈することはなかったが、天皇の内勅がでると呆気ないほど簡単に身をひいてしまった。この事件での彼の行動は、彼の生涯にわたる世界観・政治観を端的に表しているともいえる。