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'''パプア紛争'''(Papua conflict)は、[[インドネシア]]東方のパプ[[ニューギニア島]]西部の原住民の独立運動によって([[イリアンジャヤ]])で発生した独立紛争。
 
== 概要 ==
19世紀後半からニューギニア島西部は[[オランダ領ニューギニア]]として[[オランダ領東インド]]の一部を構成していたが、[[太平洋戦争]]における[[日本軍]]の侵攻は[[オランダ]]本国の[[植民地]]における統制力を大きく弱め、ついに戦争終了間もない[[1949年]]、インドネシアは[[インドネシア独立戦争|独立を手に入れた]]。しかし[[ハーグ]]で行われた独立をめぐる円卓会議上、オランダ側はニューギニア島西部は新生インドネシア国家に含まれないとし、将来の帰属解決を保証する一方で植民地体制を維持することとなった。これに大きな不満を抱いていたインドネシアは、1952年にオランダが先住民[[パプア人]]の自治権を優先し、インドネシアから完全に分立した新国家としての独立を認めようとしていることを知ると対抗してイリアン地方自治省を設立し、ニューギニア島西部はあくまで自国領であるという認識を示した。
多くの戦闘が[[ニューギニア島]]の[[パプア州]]と[[西パプア州]]で起こった。1963年の[[オランダ領東インド]]の撤退以降、パプア独立武装組織である[[自由パプア運動]])(略称:OPM)がインドネシアに対して低強度ゲリラ戦争を行った。これはインドネシア軍や警察を標的としており、パプア人を除くインドネシア人入植者や外国人を対象とした誘拐も行った。西パプア人は独立や[[パプアニューギニア]]との連合を目指し、様々な抗議や国旗掲揚式典を行った。また、インドネシア政府を無差別暴力や表現の自由の抑圧を行ったとして非難した。1961年以降10万人以上の西パプア人がインドネシア軍によって殺害されている。
 
そして[[1961年]]、オランダがオランダ領ニューギニアの独立を正式に認めると翌[[1962年]]から[[空挺部隊]]や[[魚雷艇]]部隊を出撃させ本格的な武力介入を開始した。時の[[アメリカ大統領]][[ジョン・F・ケネディ]]はこの紛争の調停に乗り出し、[[8月15日]]に[[ニューヨーク]]合意と呼ばれる合意を取り付けることに成功した。これによりニューギニア島西部は一旦[[国際連合]]の統治下に置かれ、[[1963年]][[5月1日]]までにインドネシア統治に移管すること、1969年末までに帰属を自己決定させることが合意された。国際連合もこれを歓迎し早くも[[9月21日]]の[[国連総会決議]]1752において[[事務総長]]へ適切な措置の実施を求め、行政機構である国際連合暫定統治機構(UNTEA)と治安機構である[[西イリアン国際連合保安隊]]とが協力して暫定統治にあたり、1963年にニューヨーク合意に基づいてニューギニア島西部はインドネシア政府の統治を受けることとなった。
 
しかし[[1965年]]の[[9月30日事件]]以降インドネシアでは軍部による独裁が強まり、ニューギニア島西部のパプア人も容赦なく弾圧された。[[1969年]]にはこれもニューヨーク合意に基づいた帰属確定のための[[住民投票]]が行われたが、[[インドネシア軍]]により操作された投票結果を元に西イリアン州([[1973年]]に[[イリアンジャヤ州]]と改称。[[2002年]]には[[パプア州]]に改称。[[2003年]][[2月]]、[[西イリアンジャヤ州]]が分離。[[2007年]][[2月]]、西イリアンジャヤ州を[[西パプア州]]に改称)を設立し、自国領への併合を完了した。完全独立や[[パプアニューギニア]]との連合を目指すパプア人はなお諦めることなく{{仮リンク|自由パプア運動|en|Free Papua Movement}}(略称:OPM)を設立した。活動内容はインドネシア軍や[[警察]]を標的とした[[ゲリラ戦]]、さらに外来のインドネシア人入植者や外国人を対象とした[[誘拐]]からパプア州特別自治法を始めとするインドネシアの弾圧体制に対する様々な抗議活動、独自の[[国旗]]掲揚式典までを行った。これに対しインドネシアが行った無差別暴力や表現の自由の抑圧は苛烈なものであり、1961年以降インドネシア軍・警察によって殺害された西パプア人は10万人以上にのぼるとされている。
 
== 脚注 ==