「長泉院 (目黒区)」の版間の差分

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== 歴史 ==
草創は[[宝暦1761年|1761]]11年([[1761年宝暦]]11)年。開山は[[増上寺]]第45代大玄とされるが、彼は律院(僧侶教育のための寺院)の創立を願ったまま宝暦6年([[1756年|1756]](宝暦6)年に死去した。律僧である不能が彼は大玄の遺志を継ぎ、当時[[武蔵国]][[多摩郡]]に存在し無住の寺院であった長泉院を、増上寺の所領であった目黒の地に移すことをよう願い出て許可された。不能もこの許可が下りた直後の宝暦12年([[1762年|1762]](宝暦12)年に没したため、新たな住職には普寂が就任した。これらの経緯から、西村玲は「普寂が実質的な初代住職であった」とされ<ref>西村玲「徳門普寂 -その生涯(1707-1781年)- 」『インド哲学仏教学研究』14、pp87pp.87-99、2007年、東京</ref>
 
普寂は[[1766年|1766]]([[明和]]33)に[[和泉国]][[堺市|堺]]の心蓮寺から本尊を譲り受け、翌年には本堂を建立している。[[1772年|1772]]([[安永 (元号)|安永]]1年には年、北川氏によって鐘および鐘楼が建てられた。
 
[[1781年|1781]]([[天明]]1年、普寂没後に堯雲が第四代住職となっている。[[1786年|1786]](天明66)には増上寺によって「長泉院定規」が出され、律僧が円頓戒を授けることや、一向宗素性の者および売買・法買・名利之輩が寺内に立ち入ることを禁じられた。西村は、長泉院の律僧が宗団の制御を離れて混乱したのではないかと推測している<ref>西村前掲論文p97p.97。</ref>。
 
[[小説家]][[武田泰淳]]は、養子となった先の実家が長泉院であり、彼自身も一時期住職となっていた。現在彼と随筆家[[武田百合子]]夫妻の墓所が同寺にある。
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== 文化財 ==
[[松崎慊堂]]墓 東京都指定旧跡 ([[1955年]]3月28日指定)<ref>[http://www.city.meguro.tokyo.jp/kurashi/gakko/bunkazai/shitei/toshitei/matuzakikodohaka/index.html 目黒区公式ホームページ]</ref>
 
== 附属施設 ==