「千代の富士貢」の版間の差分

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=== 弟弟子・北勝海 ===
* 8歳年下だった弟弟子・[[北勝海信芳]]との猛稽古は、毎回壮絶な物であったという。その甲斐もあって北勝海は、1987年7月場所に第61代横綱へ昇進を果たし、幕内優勝を合計8回も達成した。さらに1989年7月場所では、千代の富士と北勝海で史上初の同部屋横綱優勝決定戦で対戦、千代の富士が優勝(しかし優勝決定戦後は二人共に「今後は二度とやりたくない」とコメントしていた)。北勝海本人は現役引退後「大将(千代の富士)がいたおかげで自分も横綱になれたと思う」と語っており、千代の富士の指導力・影響が如何に大きかったかを物語っている。事実、千代の富士が横綱昇進を決めた時は部屋の関取が千代の富士だけだったが、その後も北勝海を筆頭に、[[安田忠夫|孝乃富士]]・[[巴富士俊英|巴富士]]が関取(共に最高位は小結)に昇進している。当の千代の富士本人も「北勝海は同部屋ながらも自身にとって非常に良いライバルだった。もしも稽古熱心な北勝海がいなかったら、自分の力士寿命はもっと短かったかもしれない」と語っている。
* 北勝海の横綱昇進に伴い、同部屋に横綱が2人となったため、力士が2人をどう区別して呼ぼうかと迷った際、北勝海の提言で千代の富士を「大将」と呼ぶようにさせた話も残っているが、横綱となった身の者が先輩横綱という意味のみならず「ワンランク上の横綱」と見ていた存在感の大きさを現すエピソードである。