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フランス・[[シェルブール]]のワイン商人の家に生まれる。[[エコール・ポリテクニーク]]を卒業。はじめはフランス政府の[[技監]]だった。しかし、社会問題を研究するようになり、[[1890年代]]に[[マルクス主義]]に傾倒する。[[労働組合]]の団結と闘争とを説く([[1898年]])。その反議会主義と[[直接行動]]への志向は当時の[[知識人]]と[[労働者]]に歓迎された。[[ドレフュス事件]]の際に[[反ユダヤ主義]]への反対もしている。
最初、マルクス主義理論の弱点と考えたものを補おうとしたが、最終的にはマルクス主義の修正とも言える思想を唱え、[[エドゥアルト・ベルンシュタイン]]の右派的な[[修正主義]]とは区別して[[史的唯物論]]と[[弁証法的唯物論]]、および[[国際主義|プロレタリア国際主義]]を拒絶した[[:it:Revisionismo del marxismo#In Italia|左派修正主義]]を主張した<ref>Zeev Sternhell: ''The Birth of Fascist Ideology: From Cultural Rebellion'', 2001, pp.92</ref><ref>[[大杉栄]]『ベルグソンとソレル』二 ソレルとセンディカリスム</ref>)。さらに正統派マルクス主義の「歴史の必然」を信じず、慎重に考案された「[[神話]]」が[[大衆]]を一致した行動に導く、と考えた。したがって、ソレルの行動指針は、[[ゼネラル・ストライキ]]、[[ボイコット]]、[[労働争議#サボタージュ|サボタージュ]]によって[[資本主義]]を分裂させ、労働者による[[生産手段]]の統制をもたらすことに向けられた。さらに[[ブルジョワ民主主義]]に懐疑的な[[アナキスト]]である[[ピエール・ジョゼフ・プルードン|プルードン]]
一方、ソレル自身はあくまでマルクス主義理論家であった。ソレルは[[イタリア]]のマルクス主義の父[[アントニオ・ラブリオーラ]]と親交を持っていて、[[フランス語]]に翻訳された「歴史の唯物論概念」についてのラブリオーラの[[エッセイ]]に序文を書いている。さらには主著の『[[暴力論]](『暴力に関する考察』) Reflexions sur la Violence, [[1908年]]』第五版の付録として、《[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]のために Pour Lenine 》という題の論文を書いて憲法制定会議をボイコットして[[社会主義]]を宣言したレーニンの行為を弁護し、[[ロシア革命]]をたたえている。
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