「反共主義」の版間の差分

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[[File:Anticommunism.svg|thumb|260px|反共主義のロゴ。[[共産主義]]を象徴する[[鎌と槌]]がバツ印で消されている。]]
[[ファイルFile:Vinnycia01.JPG|thumb|260px|[[ナチス・ドイツ]]が[[ヴィーンヌィツャ大虐殺]]の件を使って[[共産主義]]の脅威を宣伝するため制作したポスター]]
 
'''反共主義'''(はんきょうしゅぎ)または'''反共産主義'''(はんきょうさんしゅぎ、{{lang-en|Anti-communism}})とは、[[共産主義]]に反対する[[思想]]や[[運動]]のこと。短く'''反共'''とも。対比語は[[容共]]<ref>但しその定義は不明。当該項目参照</ref>。
[[1871年]]には社会主義や共産主義の理念に基づき、世界初の労働者政権である[[パリ・コミューン]]が樹立された。この時、[[資本家]]を中核とした反共勢力は周辺国への伝播を防ぐべく圧力を加え、僅か半年でパリ・コミューンは打倒された。
 
[[File:Socialism Throttling the Country.jpg|thumb|260px|[[1909年]]の[[イギリス]]の[[保守党 (イギリス)|保守党]]による反社会主義ポスター。]]
その後、革命勢力のうち[[社会民主主義]]/[[共産主義]]勢力は[[第二インターナショナル]]運動へと進んだ。それに対し反共主義勢力は、ドイツ帝国の宰相・[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]によって制定された[[社会主義者鎮圧法]]、日本の[[山縣有朋]]内閣で成立した[[治安警察法]]などのように、治安立法で[[共産主義]]・[[社会主義]]運動を取り締まった。
 
=== ロシア革命から治安維持法成立まで ===
1929年に[[世界恐慌]]が発生すると、ドイツ、イタリア、日本などで[[全体主義]]([[ファシズム]])や[[軍国主義]]が台頭し始めた。日本では、1931年に早稲田大学教授政治学博士の[[五来欣造]]がイタリア、フランス、ドイツ、イギリス、ロシアを回り、1932年に「ファッショか共産主義か」という講演を行っており、1933年に講演録が発行された<ref name="fascio-or-communism"/>。これらの国々も同様に共産主義を危険視して否定し、徹底的に取締りを行ない、共産主義者を社会から排除した。ところが「社会を国家権力によって一元的に統制する」点において全体主義は共産主義と共通している。日本では、共産主義者から[[国家社会主義]]者への[[転向]]が多かったとされる。日本国内においては[[昭和研究会]]・[[満鉄調査部]]などの組織や[[革新官僚]]と呼ばれる者たちの思想的背景には社会主義あるいは共産主義と遜色のないものも見られた。実際、彼らと緊密に関わった[[近衛文麿]]は、後に「国体の衣を着けたる共産主義」と評している。また、日本における右翼思想家で国家社会主義者として知られた[[北一輝]]は、明治維新を「天皇を傀儡とした社会主義革命」と規定し、[[昭和維新]]はそれを完成させる革命と考えた。また北一輝の影響を受けた[[二・二六事件]]の当事者の将校たちは、ボリシェヴィキの蜂起教範を参考にしたといわれる。その他、日本の[[戦時体制]]は、ソ連の計画経済の影響を受けていたとされる。
 
1933年、満州国ハルビンにおいて[[白系ロシア人]]による反共主義的組織の[[ロシアファシスト党]]が生まれる。彼らは親日的ではあったが、親独的かつ[[反ユダヤ主義]]でもあったため、日本の[[八紘一宇]]の精神や親ユダヤ政策([[河豚計画]])、満州国の民族協和政策([[五族協和]])との間に整合性の問題が起きることとなった。同地では、ロシアでの赤化革命の首謀者はユダヤ人であるなどとして、[[反ユダヤ主義]]が広まっていた。
 
1934年には既に、1937年のソ連第二次[[五ヶ年計画]]完成によって極東軍備の完成及び赤化攻勢の強化が行われるため、これが「一九三五─六年の危機」と呼ばれるものの一つとされていた<ref>[http://books.google.co.jp/books?id=Tm6FINJ9DrwC&pg=frontcover 躍進日本と列強の重圧] 1934年7月28日 陸軍省新聞班</ref>。1935年5月から、外務大臣[[広田弘毅]]は中華民国側と協議を行い、条件の中に「3. 外蒙等ヨリ来ル赤化勢力ノ脅威カ日満支三国共通ノ脅威タルニ鑑ミ支那側ヲシテ外蒙接壌方面ニ於テ右脅威排除ノ為我方ノ希望スル諸般ノ施設ニ協力セシムルコト」を提示した。1935年7月から8月にかけて、[[コミンテルン]](第三インター)が第7回コミンテルン世界大会を開き、日本やドイツ等を共産化の主な攻撃目標に定めた<ref>世界の戦慄・赤化の陰謀 P.75-76 [[東京日日新聞]]社・[[大阪毎日新聞]]社 [[1936年]]</ref>。それに対し、日本と独逸は、1936年11月25日に、[[日独防共協定]]を結んだ。この協定は、建前上反コミンテルンを目指したものであり、当時ソ連が主張していたようにソ連とコミンテルンは別物という立場を取っていたが、それらが同一であることは明白であったため、秘密附属協定にはソ連への規定を含んでいた。また、12月3日に[[有田八郎]]外相はこの協定に関し「英米とも同様の協定を結ぶ用意がある」とした<ref name="kokusai-jijo">[http://books.google.co.jp/books?id=b9TYvAb8tc4C&pg=frontcover 国際事情] 1937年9月25日 外務省情報部編纂</ref>。
こうした関係からファシズムと共産主義(この場合は[[マルクス・レーニン主義]])はお互いの政治的過程で対立しつつも、根本的な政治思想という点では一致していると指摘する論者も多い。この指摘を裏付けるための研究は[[ハンナ・アーレント]]の[[全体主義]]の系譜についての理論が著名であり、近年では[[アンドレ・グリュックスマン]]が研究の第一人者として知られている。ソ連などの崩壊で大量の資料が公開されたことで、よりインテリジェンスな裏付けも可能になり、近年では思想史的な研究だけでなく実証的な研究も盛んになっている。
 
[[File:Milice poster.jpg|thumb|220px|[[第二次世界大戦]]中、[[ヴィシー政権]]時代の[[フランス]]の[[民兵団 (フランス)|民兵団]]の反共ポスター。]]
しかし、反共主義陣営では、[[第二次世界大戦]]勃発までファシズム・ナチズムの評価は分かれていた。[[ウィンストン・チャーチル]]などは共産主義同様の脅威であり、暴政を見過ごすべきではないと主張した。しかし、[[ネヴィル・チェンバレン]]などの、反共のために利用できるとする見方がある時期までは優勢だった。ファシズム・ナチズムがいかに問題でも、うかつに打倒しようものならソ連にイタリアやドイツへのつけいる隙を与え、ひいては欧州全体がその勢力圏にされかねないという主張だった。チェンバレンらの取った、対独[[宥和政策]]はこの路線に沿ったものだが、第二次世界大戦開戦と、ドイツの[[ベネルクス3国]]やフランスへの侵攻で破綻した。
 
こういった主張や研究は、ファシズムと共産主義の双方と対立する資本主義・民主主義勢力からも受容され、2006年8月31日と9月5日の[[ジョージ・W・ブッシュ]]大統領の演説、[[三色同盟]]といった反共保守層からの発言にもそれが表れている。
=== 冷戦時代 ===
{{seealso|民主化}}
[[File:Is this tomorrow.jpg|thumb|220px|"Is this tomorrow"と題された[[1947年]]の[[アメリカ合衆国]]の反共パンフレットの表紙。]]
[[第二次世界大戦]]において、アメリカを中心とする自由主義国と共産主義国であるソ連が手を結んだ[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]が枢軸国に勝利すると、戦後処理の仕方を発端に[[1947年]]から米英とソ連の対立が始まった。日本では、[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)が参謀第2部([[G2]])を創設し、反共主義者の[[チャールズ・ウィロビー]]の下に反共工作を行った。その過程で、同じくGHQの[[民政局]](GS)と対立することになった。
[[File:CDU Wahlkampfplakat - kaspl010.JPG|thumb|220px|1953年の[[西ドイツ]]([[ドイツ連邦共和国]])の[[ドイツキリスト教民主同盟]]の反共主義ポスター。]]
 
[[第二次世界大戦]]において、[[アメリカ合衆国]]を中心とする[[自由主義]]国と[[共産主義]]国であるソ連が手を結んだ[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]が枢軸国に勝利すると、戦後処理の仕方を発端に[[1947年]]から米英とソ連の対立が始まった。日本では、[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)が参謀第2部([[G2]])を創設し、反共主義者の[[チャールズ・ウィロビー]]の下に反共工作を行った。その過程で、同じくGHQの[[民政局]](GS)と対立することになった。
 
第二次世界大戦後は、ソ連の占領下において[[東ヨーロッパ]]各国が共産化し、[[ユーゴスラビア]]が国内の枢軸国軍を放逐して共産主義国となり、[[中国共産党]]第二次[[国共内戦]]に勝利して[[1949年]][[10月1日]]に[[中華人民共和国]]が成立するなど、第二次世界大戦前はソ連と[[モンゴル]]だけだった共産主義国が大幅に拡大した。自由主義国は、自国に[[共産主義]]が波及するのを恐れて、反共主義をスローガンに[[アメリカ合衆国]]からの支援を受け、国内の共産主義勢力と対決した。[[ロシア革命]]でも[[白軍]]を支援した[[ウィンストン・チャーチル]]は、第二次世界大戦の終結後に「[[鉄のカーテン]]」演説を行い、ソ連をはじめとする共産圏の閉鎖性を批判した。
 
第二次世界大戦後は、ソ連の占領下において東ヨーロッパ各国が共産化し、ユーゴスラビアが国内の枢軸国軍を放逐して共産主義国となり、中国共産党が内戦に勝利して中華人民共和国が成立するなど、戦前はソ連とモンゴルだけだった共産主義国が大幅に拡大した。自由主義国は、自国に[[共産主義]]が波及するのを恐れて、反共主義をスローガンに[[アメリカ合衆国]]からの支援を受け、国内の共産主義勢力と対決した。[[ロシア革命]]でも[[白軍]]を支援したチャーチルは、第二次世界大戦の終結後に「[[鉄のカーテン]]」演説を行い、ソ連をはじめとする共産圏の閉鎖性を批判した。
[[冷戦]]時代の反共主義は、[[スターリニズム]]などに代表される[[ソビエト連邦|ソ連]]の[[独裁]]政治を生み出した共産主義は民主主義に対する脅威であると強調し、反共は政治的・軍事的な面が色濃かった。[[赤狩り]]はその典型で、その後も反共主義勢力は[[労働運動]]や[[社会主義]]運動を取り締まった。日本でも、[[1949年]]に起こった[[日本国有鉄道|国鉄]]の大量解雇の背景には、共産主義者が革命のために労働運動を暴力的なものへ扇動していることに対する反共主義者の警戒があった(→[[ニ・一ゼネスト]]、[[労働基本権|政令201号]])。「[[マッカーシズム]]」とも呼ばれる反共政策は、本来、共産主義とは無縁であったとも思われる人々も「共産主義者」のレッテルが当人を失脚させたい政敵によって貼られ、社会から追放されるという行き過ぎた面があったため、やがて影を潜めた。
 
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