「ジョン・ディーコン」の版間の差分

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| Notable_instruments = [[ミュージックマン・スティングレイ]]<br />[[フェンダー・プレシジョンベース]]
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'''ジョン・リチャード・ディーコン'''(John Richard Deacon、[[1951年]][[8月19日]] -)は[[イギリス]]の[[ミュージシャン]]。[[ロックバンド]]、[[クイーン (バンド)|クイーン]]の元[[ベーシスト]]。血液型は[[ABO式血液型|O血液型]]はO型。「[[マイ・ベスト・フレンド]]」、「[[地獄へ道づれ]]」、「[[ブレイク・フリー (自由への旅立ち)]]」などのヒット曲を作詞・作曲した。
 
2013年現在は音楽活動からは事実上引退している。
 
== 人物 ==
クイーンの[[ボーカル]]である[[フレディー・マーキュリー]]を一人のアーティストとして尊敬しており、「[[クイーン (バンド)|クイーン]]のヴォーカルはフレディーしかいない」と発言している。また彼自身が歌うことや[[コーラス]]をとることは少なく「自分は音痴だ」とも語っている。
 
温厚な人柄であり、メンバー間の衝突により度々たびたび訪れたバンド解散の危機を幾度も救った。ベース以外にもピアノなどの演奏も出来るマルチプレイヤーである。また[[ドラム]]も少々たしなむ。クイーンのメンバー中では一番多くの子供をもうけた。
 
電子系の大学を卒業しており機械関係に強かったため、[[ブライアン・メイ]]や自身の[[エフェクター]][[アンプ]]度々たびたび作製したり改造するなど、演奏や作曲以外でもサウンド面でバンドに貢献していた。中でもブライアンが使用していたジョン作製のオリジナル・アンプ、通称DEAKY AMP(ディッキー・アンプ)は、ギター[[レッド・スペシャル]]と[[エフェクター]]とギターテクニックの組み合わせにより七色のサウンドを出すことが可能だった。
 
== 経歴 ==
=== 幼少期からクイーン参加まで ===
[[レスターシャー]]の[[:en:Oadby|オードビー]]に生まれ育つ。7歳の時に両親から買い与えられたおもちゃの[[ギター]]から音楽に興味を持ちだす。音楽と並行して機械いじりにも興味があり、無線装置などで遊んでいたという。この機械に対する興味が後々、彼の進路と音楽活動に影響を与えることになる。新聞配達で稼いだお金で[[アコースティック・ギター]]を購入したのが本格的な音楽活動の第一歩。14歳からジ・オプジションというバンドにリズムギターで加入するが、そこにいた[[ベーシスト]]がバンドのレベルに次第についていけなくなったため脱退。ジョンがベースに転向することになる。後に同じ名前のバンドが現れたため、ザ・ニュー・オプジション、さらにジ・アートという名前に改名することになる。このバンドはジョンが[[ロンドン大学]]分校・[http://en.wikipedia.org/wiki/Chelsea_College_of_Science_and_Technology チェルシーカレッジ]{{enlink|Chelsea_College_of_Science_and_Technology|a=on}}電子工学科に入学するまで続けられた。大学に入ってからは学業に専念し、チェルシーカレッジを首席で卒業、名誉学位を与えられる。
 
ジョンは大学在籍時から友達と趣味程度のバンドを組むようになるが、数回の活動で終わってしまう。その後いくつかのバンドのオーディションを受けるがすべて落選。そうした中、[[1971年]]1月に友人のクリスティン・ファーネルと行った[[ディスコ]]で、[[ブライアン・メイ]]と[[ロジャー・テイラー]](この2人もクリスティンの友人であった)に会い、ベーシストが定着していなかった[[クイーン (バンド)|クイーン]]のオーディションを知らされる。その後面接を受け、採用されることになるのだが、採用の決め手はベースの腕前もさることながらジョンが謙虚な人柄で(脱退したベーシストたちは自己主張が強かったという)、機械に強かったからと言われている。
 
=== クイーン内での役割 ===
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=== 引退 ===
[[1997年]]以降表舞台に出る機会が減少したため引退の真相は不明だったが、[[2004年]]にはテイラーが「ジョンは事実上引退している」と発言したほか、クイーンと付き合いの長い[[東郷かおる子]]が寄稿したクイーン+ポール・ロジャース日本公演(2005年)のパンフレットには「音楽業界から引退」と記載された。
 
テイラーによると、もともとジョンは表舞台に出るのが苦手であり、音楽業界の慌ただしさや狂騒をストレスだと感じていたようで、特にフレディが亡くなったことでさらに内にこもるようになってしまったという。それでも「今でも俺達と同じクイーンの一員であることに変わりはないよ」と話している。
 
また、イギリスのリッチリストによると、「ジョン・ディーコンはツアーには参加しなかったが、[[著作権]]使用料と『ウィ・ウィル・ロック・ユー』の長きにわたる成功により、利益を得た」とされている。最近では[[MySpace]]上に自分のページを設けたり(すぐに閉鎖)、時折自分のファンサイトに書き込みをするなどしている。
 
== ディスコグラフィー ==
 
{{Main|クイーンの作品}}
 
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{{DEFAULTSORT:ていいこん しよん}}
[[Category:クイーンのメンバー]]
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[[Category:存命人物]]
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[[Category:1951年生存命人物]]