「ヤン・ラディスラフ・ドゥシーク」の版間の差分

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作曲家として以外にドゥシークが音楽史上で重要なのは、ピアノの「英国式アクション」を開発したジョン・ブロードウッドと親交があったためである。ドゥシークの作品は、当時はやりのピアノには出せない力強さや音域が必要だったので、ブロードウッドに音域と音響の拡大を迫ったのである。その後ブロードウッドのピアノは、ドゥシークの即興曲を付けて、ベートーヴェンの許に送られた。それからドゥシークがブロードウッドと晩餐をとっていると、ソフィーが愛人と連れ立って家を出てしまう。だが愛人に拒絶されたためにソフィーはドゥシークの許に帰ってきた。ドゥシークとコッリの会社が破産すると、ドゥシークは家族を捨てて[[イングランド]]からドイツに逃れ、そのため義父コッリは債務者牢につながれてしまった。
 
ドイツでは、初めは[[フランツ・リスト|リスト]]を予告するような、最初の「美男」ピアニストだった。[[ルイ・シュポーア]]によるとドゥシークは、「淑女たちが彼の美しい横顔を愛でることができるように」、舞台上にピアノを横向きに置いた最初のピアニストだった。だが間もなく、[[プロイセン王国|プロイセン]]王太子[[イ・フェルディナント王太子]]えをはじめ官すようになり、王太子には、使としてよりもむしろ友人や同僚として遇されるようになった。二人は時おり一緒になって、「音楽の饗宴」と呼ばれた乱痴気騒ぎに興じもした。ルイ・フェルディナント王太子が[[ナポレオン戦争]]で戦死すると、ドゥシークは感動的な《ピアノ・ソナタ〈哀歌〉》作品61を作曲する。
 
[[1807年]]には、かつてのマリー・アントワネットとのゆかりがあるにもかかわらず、ドゥシークはパリに戻り、有力なフランスの外務大臣[[タレーラン]]に召し抱えられた。ドゥシークの作曲した力強い《ピアノ・ソナタ〈パリへの帰還〉》は、最終楽章がマリー・アントワネットの視点から、フランス革命の歴史を音楽で表現したものと見なしうる。[[ギロチン]]が降りて、女王の亡霊が戻ってくるとクライマックスになる。